浦上四番崩れ
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浦上四番崩れ(うらかみ よんばんくずれ)は、長崎県で明治初期に起きたキリシタン弾圧をいう。
[編集] 概要
1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内に大浦天主堂が建てられた。当然日本人の来訪はないものと思われたが、翌1865年(慶応元年)3月17日、浦上村住民、クララ、ドミンゴ以下14名の日本人が訪れ、「『7代たてば黒衣のパードレが出て、神の国の支配がはじまる』という祖先の予言を信じてきた」と仏人神父ベルナール・プティジャンに告げ、敢然として信仰を告白した(いわゆる信徒発見)。
以後天主堂と信徒の交流は秘密裏に続けられたが、やがて伊王島、外海、五島、平戸、佐賀の馬渡島へと宣教が及び、もって浦上をはじめ長崎周辺におびただしい数の「隠れキリシタン」がいることが判ってきた。天主堂はこれをバチカン本寺に急報し、在留外国公使も感動をもって本国にこれを打電した。
然るに、長崎裁判所総督沢宣嘉、同じく参謀井上馨らは、浦上村民を拘禁し、市中取締役26人に『浦上切支丹厳刑建言書』を提出せしめて、あたかも彼らの要求に答えただけと見せかける小策を弄し、1868年(明治元年)閏4月17日、村民を尾張堀河、津和野、萩等への遠流に処すことを布告、翌月から1870年(明治3年)まで処分される者が続き、村民は流刑先で拷問を加えられた。それは水攻め、火攻めなど旧幕時代と変わらぬ過酷なものであった。
米・英・プロシャ・ベルギー・ポルトガルの各国公使は、事の次第を本国に告げ、日本政府に抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下遣欧使節団一行が、訪問先のアメリカ国務長官フィッシュ、英王ビクトリア、デンマーク王クリスチャン9世らに、禁教政策を激しく難じられる失態を演じ、当時欧米にあった駐米少弁務使森有礼、西本願寺僧侶島地黙雷らも非をならした。
1873年(明治6年)2月、切支丹禁制の高札が撤去され、信徒らは釈放された。配流された者、諸説あって3,000ないし3,500、うち生きのびて帰村、土着した者は2,000人に達しない。帰ってきた者らはこの苦難を『旅』と呼んで信仰を強くし、1979年(明治12年)、故地浦上に聖堂を建てた。
なお1945年8月9日の原爆被災により、被害の中心となった浦上地区で天主堂が破壊されキリスト教徒の中から多数の犠牲者が出たことを、四番崩れに続く「受難」と捉えて「浦上五番崩れ」と称する場合もある。
[編集] 参考文献
- 遠藤周作 『女の一生』 新潮社
- 田中彰 『日本の歴史 明治維新』 小学館