源俊明
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源俊明(みなもと の としあき、寛徳元年(1044年) - 永久2年12月2日(1114年))は平安後期の公卿。
父は醍醐源氏の源隆国(宇治大納言)、母は源経頼(左大弁、『左経記』の記主)の女。彼自身は三男である。祖父源俊賢以来、三代続けて大納言の顕官に至った。
『古事談』などに能吏としての逸話を残す一方、『続後撰和歌集』、『続拾遺和歌集』などに和歌が入集されている。
[編集] 人柄と逸話
父隆国は宇治殿頼通の側近として東宮時代の後三条天皇に甚だ無礼であった。その為、即位後の後三条天皇は隆国の子息達を罪科に当てようと考えていた。しかし、長男の隆俊や次男の隆綱は共にその才能を愛され、天皇の近習として重用された。そこで天皇は三男の俊明にこそ鬱憤を晴らそうとしたが、内裏の火災の際の豪気な行動を高く買われ、その才能を愛でてかえって昇進させたという。
後三条天皇崩御後も、引き続きその息子の白河天皇の近習として重用され、退位後の上皇後院の別当としても厚く信頼され、また剛直な人柄は廟堂に重きをなした。白河院政下、愛憎の別が激しく身分秩序を無視して気ままの叙位除目を行った上皇をたびたび諌め、特に次の逸話は名高い。嘉承二年(1107)、五歳の鳥羽天皇が即位した際、天皇の外伯父公実が自ら摂政就任を主張し、公実と従兄弟にあたる白河院は悩んだ。だが、俊明は頼通・師実が摂関として廟堂に尽くすところ大きく、その嫡流である忠実を抑えて、(公季以後)四代傍流であり続けた公実を摂関に就かせるのは不当であると言い切り、白河院を思い直らせたという。すなわち摂関家嫡流の危機を救ったのであり、それ以後、天皇との外戚関係の有無にかかわらず御堂流の正嫡が摂関を継承する制度が確立した。
[編集] 参考文献
- 『国史大事典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137
- 『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中央公論社
[編集] 関連項目
- 源氏
- 醍醐源氏