由良貞靖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新田 貞靖(にった さだやす)【維新以前は由良 貞靖(ゆら さだやす)】、天明5年4月9日(1785年5月17日) - 明治2年2月9日(1869年2月19日))は、江戸時代の高家旗本。松平頼亮の五男(「新田家系譜」)。生母は川上氏。初名は頼靖。幼名は松平寿之助、のち由良久之助。官位は従四位上侍従兼播磨守。
実父松平頼亮は陸奥守山藩主、実兄武田信典は高家旗本である。母は漪、松平(水戸)大蔵大輔源頼順女(実母川上氏女)。文化11年(1814年)3月27日、幕命にて高家旗本由良貞陰と養子縁組。同年7月22日養父貞陰の隠居により、家督を相続する。同年9月22日将軍徳川家斉に御目見し、表高家となる。文政2年(1819年)12月24日高家職に就任し、諸大夫成り改名を仰せ付けられ、由良久之助改め由良播磨守と改名(従五位下侍従・播磨守の叙任は、朝廷より後日位記・口宣を拝命)。天保13年(1842年)5月15日、従四位下に昇進。嘉永5年(1852年)5月26日高家肝煎となり、役料800俵を賜る。嘉永7年(1854年)2月18日、従四位上に昇進。文久3年(1863年)12月21日高家肝煎を辞し、雁之間高家末席となる。元治元年(1864年)7月29日隠居し、養子貞時(実父森忠敬)に家督を譲る。その際500俵を隠居料として賜る。慶応4年(1868)、隠居の身ながら家臣と協議し、新田氏に復することを決議。当主・貞時と共に新田姓となり、「新田四位侍従」と呼称される。明治2年(1869年)2月9日死去、享年85。法名は徳勝院殿施道良門大居士。新田由良家歴世の菩提寺、芝二本榎の國昌寺に埋葬する。
以上、「新田家記録」などにより抽出。(新田義和 責)
- 高家由良家11代当主
- 1814~1864
-
- 先代:
- 由良貞陰
- 次代:
- 由良貞時