町田忠治
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町田忠治(まちだ ちゅうじ、1863年5月17日(文久3年3月30日) - 1946年11月12日)は、明治時代から昭和時代の政治家で、閣僚を歴任したが最晩年は公職追放された。愛称はノンキナトウサン。
出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田長生の四男として誕生。1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となる。旧制秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)卒業後、県費留学生として大学予備門に入学し、1887年に帝国大学法科大学撰科を卒業。
法制局に入るものの1年で退官し、1888年「朝野新聞」に入社。1891年には「郵便報知新聞」に移り、犬養毅・尾崎行雄らと論陣を張った。外遊の後の1895年に「東洋経済新報社」を創立、翌年には天野為之に譲り、1897年日本銀行大阪支店次席となる。1899年大阪の山口銀行(後の三和銀行)の総理事に招かれて10年余その経営にあたった。
1912年5月15日の第11回総選挙で郡部区(定数6)から立候補して初当選を果たした。以後、1920年(大正9年)5月10日の第14回総選挙で1度落選するものの、1942年(昭和17年)4月30日の第21回総選挙まで10回当選した。得票数は次の通りである。
- 第11回総選挙 郡部区 当選(1位) 3565票 (1912年(明治45年)5月15日:水曜日)
- 第12回総選挙 郡部区 当選(1位) 3208票 (1915年(大正4年)3月25日:木曜日)
- 第13回総選挙 郡部区 当選(4位) 2267票 (1917年(大正6年)4月20日:金曜日)
- 第14回総選挙 第3区 次点(2位) 2249票 (1920年(大正9年)5月10日:月曜日)
- 第15回総選挙 第4区 当選(1位) 4194票 (1924年(大正13年)5月10日:土曜日)
- 第16回総選挙 第1区 当選(1位) 18352票 (1928年(昭和3年)2月20日:金曜日)
- 第17回総選挙 第1区 当選(2位) 20790票 (1930年(昭和5年)2月20日:木曜日)
- 第18回総選挙 第1区 当選(4位) 15294票 (1932年(昭和7年)2月20日:土曜日)
- 第19回総選挙 第1区 当選(1位) 26426票 (1936年(昭和11年)2月20日:木曜日)
- 第20回総選挙 第1区 当選(1位) 18429票 (1937年(昭和12年)4月30日:金曜日)
- 第21回総選挙 第1区 当選(1位) 18611票 (1942年(昭和17年)4月30日:木曜日)
所属政党は立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党と移り、1919年(大正8年)以降はたびたび憲政会総務を務めた。一方で、1919年から1926年まで報知新聞社社長も兼任した。第一次若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣の農林大臣、岡田啓介内閣の商工大臣、第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣、第二次近衛文麿内閣の内閣参議、小磯国昭内閣の国務大臣を歴任した。
党務としては1927年(昭和2年)立憲民政党の結党と同時に総務となり、1934年11月から民政党総務会長として総裁代行を務め、1936年1月21日に総裁就任。近衛新体制運動が展開され、1940年8月に解党を余儀なくされた。1941年翼賛議員連盟顧問、1942年翼賛政治会顧問となった。
第二次世界大戦後は1945年11月の日本進歩党結党に参加し、総裁に就任したものの、翌1946年1月に公職追放となり引退した。同年7月に老衰と栄養失調のため病にかかり、11月12日午前4時38分、84年の生涯を閉じた。戒名は「憲忠殿衆誉無涯幾堂大居士」。東京都小石川の護国寺と秋田市誓願寺に墓がある。