石井浩郎
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石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、秋田県南秋田郡八郎潟町出身の元プロ野球選手。現役時代は近鉄バファローズ、読売ジャイアンツ、千葉ロッテマリーンズ、横浜ベイスターズに在籍した。ポジションは内野手(三塁手、一塁手)。右投げ右打ち。
ロッテ時代の応援歌の原曲はイ・ジョンヒョンの『ワ』
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[編集] 来歴・人物
八郎潟町立一日市小(6年生の時に統合して八郎潟小となる)、八郎潟中学校を卒業後、県内でも野球強豪校であり、県内一の進学校である秋田県立秋田高等学校に進学。惜しくも甲子園出場を逃したが、一般入試で早稲田大学第二文学部(夜間)に現役合格し、進学。入部後、頭角を現し、日米野球選手権にも出場した。社会人のプリンスホテルに3年間在籍し、通算32本塁打を記録。中長距離打者として知られ、全日本でも4番を務めた。
1989年にドラフト3位で近鉄バファローズに入団。1年目は肝炎と風疹のため出遅れたが22本塁打を記録。剣道の上段の構えを思わせる豪快なバッティングフォームで、入団から5年連続して20本塁打以上を記録し、4番打者として362試合連続試合出場のプロ野球記録を樹立。1994年には33本塁打、111打点で打点王のタイトルを獲得。しかし、1996年には左手首を骨折し、2試合の出場に留まった。同年オフ、球団が野球協約違反の50%ダウンの年俸提示をしたため、日本野球機構からの要請を受け、一旦契約した後に読売ジャイアンツへトレード移籍した。
その後は毎年のように故障に悩まされつつも、巨人では代打の切り札として随所で勝負強さを見せた。その後、2000年に河本育之とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。ロッテでは四番打者として期待されたが、これと言った結果は出せず、2001年オフに戦力外通告を受ける。翌2002年に横浜ベイスターズへ移籍し、同年引退。10月4日に行われた対巨人戦で最後の打席に立ち(この打席の時、レフト席の巨人ファンから巨人時代の応援歌が流れていた)、ベンチに引き上げるときには、横浜のメンバーだけでなく、かつての同僚である巨人のメンバーからも拍手で送られた。
巨人時代に日本テレビ『ザ・サンデー』のスポーツコーナーで『拝啓、石井浩郎です。』というコーナーが設けられ、視聴者から好評を得ていた。そのため石井が巨人を退団した後もコーナーは暫く続けられた。
将棋が趣味の一つであり、日本将棋連盟が発行する将棋世界誌上にてゲストとして女流棋士と記念対局したことがある。また、現役時代に同僚の選手などに将棋を薦め、指していたと発言している。
引退後は実業家として飲食店などの経営を手がける。2003年には日本テレビの野球解説者、2004年には西武ライオンズの二軍監督を務めたが、ともに退職しビジネスに専念している。私生活では1997年にシンガーソングライターの岡村孝子と結婚し一女をもうけるが、2003年に離婚(子供の親権者・扶養は岡村)。
2005年に早大の後輩にあたる女性(モデル活動歴あり)と再婚を前提とした交際を続けていることを表明、翌年2006年正式に入籍、披露宴を開いた。
[編集] 略歴
- 身長・体重:183cm 94kg
- 投打:右投右打
- 出身地:秋田県南秋田郡八郎潟町
- 球歴・入団経緯:秋田高 - 早大 - プリンスホテル - 近鉄(1990年 - 1996年) - 巨人(1997年 - 1999年) - 千葉ロッテ(2000年 - 2001年) - 横浜(2002年) - 野球解説 - 西武首脳(2004年)
- FA取得:2001年(行使せず)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1989年(3位)
- 英語表記:ISHII
- 守備位置:一塁、三塁
[編集] 通算成績
- 974試合 3091打数 894安打 162本塁打 536打点 7盗塁 3犠打 494四死球 483三振 打率.289
[編集] タイトル・表彰
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 秋田県出身の有名人一覧
- 仰木彬
- 鈴木啓示
- 佐々木恭介
- 長嶋茂雄
- 山本功児
- 森祇晶
- 伊東勤
- 中島裕之(西武二軍監督時代の教え子)
[編集] 外部リンク
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第65代
-
- 先代:
- 清原和博
- 次代:
- 高橋由伸