第一次ロシア・スウェーデン戦争
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第一次ロシア・スウェーデン戦争とは、1788年から1790年まで続いた、ロシア帝国とスウェーデン王国の戦争である。外交的にはデンマークとも対峙した。戦争はスウェーデン優位に帰し、最終的には、ヨーロッパにおけるスウェーデンの国際的地位を確立させた。1808年の第二次ロシア・スウェーデン戦争と絡めて、「ロシア・スウェーデン戦争」とも言う。
事の発端は、ヨーロッパにおける国際的地位の上昇と、対ロシアとの外交関係の解消を求めて、当時、北方の覇権を確立していたロシア帝国ツァーリ・エカチェリーナ2世に対し、スウェーデン王グスタフ3世が、外交によって、内政干渉やデンマークとの協力関係を撤廃しようと画策したが、いずれも目的を果たせなかった為、開戦に踏み切ったのである。しかしスウェーデンは、戦時同盟国を持てなかった。フランス王国は、革命直前の混乱を迎えており、スウェーデンの支援を行えず、かつて大北方戦争で共闘したオスマン帝国も同盟を拒否した。しかもデンマークはなお、ロシアと同盟を結んでいた。しかしイギリス、プロイセン王国ら列強は、中立を表明した。
1788年6月にロシア軍が、フィン・ロ国境を越えてスウェーデン守備兵に攻撃を加えた事から戦争が開始された。しかしこれはすでに当初から、グスタフ3世の自作自演であるという噂が流れた。今日において、グスタフ3世による戦術である事は確かとされている。開戦するには、スウェーデン議会の了承が必要であり、大国ロシアとの戦争を望まない議員も多数存在していた為に、グスタフ3世は、守戦を装う事で自国をも欺いたと言われている。グスタフ3世は、以前から軍事力の増強に努めており、以前の自由の時代よりも陸軍、海軍は強化されていた。おりしもロシアは、オスマン帝国と戦端を開いていた(露土戦争)。グスタフ3世は、露土戦争を利用して開戦したのである。
グスタフ3世は、陸軍を総動員させ、フィンランドに上陸させた。グスタフ3世は、失われたフィンランドの領土「カレリア」の返還を要求した。しかしロシアはこの要求を拒否し、ロシア軍をフィンランドに派遣した。さらに帝都サンクトペテルブルクからロシア海軍を出兵させ、スウェーデン海軍とフィンランド湾で海戦が行われたが勝敗はつかなかった。フィンランドのスウェーデン軍はロシア国境まで迫ったが、士気は低かった。そしてここでフィンランド兵を中心にエカチェリーナ2世に対して、恭順の為の嘆願書が練られるのである。これを「アニアーラ事件」と言うが、ロシアによる陰謀であるとも言われているが定かでない。密議は結局、露見し失敗に終わっている。この様な事態であった為、フィンランドでのスウェーデンの軍事行動は不調であった。しかもこの期を逃さず、デンマークもスウェーデンに対し宣戦布告するのである。グスタフ3世は窮地に陥ったが、ここでグスタフ3世は、防衛戦争に切り替え、志願兵を募りデンマークに対抗した。さらに水面下での外交で、イギリスとプロイセンにデンマークに圧力を加えさせ、戦線から離脱させる事に成功した。そして国内では、聖職者、市民、農民の支持の元、絶対王政を復活させるのである。戦争の行方は、グスタフ3世にの手に委ねられたのである。
グスタフ3世は、陸戦の不調に代わる海戦の勝利によるロシアの首都サンクトペテルブルク侵攻作戦も視野に入れていたが、ロシアの国力を前にして、不測の事態にも備え、イギリス、フランス、プロイセンなど列強とも外交交渉を行った。
ロシアも露土戦争との二重戦争を抱え、本格的に攻勢に出れず、ロシア海軍による防衛戦争に止まっていた。一方グスタフ3世は、スウェーデン海軍に軸を置き換え、戦争はロシア・スウェーデン戦争の山場、フィンランド湾の海戦へと移っていく。そして1790年7月、フィンランド湾の一角スヴェンスクスンドの海戦で、ロシア艦隊に大勝利を収めたのである。ロシア艦隊はおよそ150隻の軍艦の内、50隻が撃沈ないし破壊され、死者はおよそ9000人にも及んだ。スウェーデン側の損害は、撃沈6隻、戦死者は僅かに300人程度であった。ただし、スウェーデン側の疫病等による死者は、1万人にも及んだとされている。
この海戦は、グスタフ3世に名声を与え、北方の強国スウェーデンを、女帝エカチェリーナ2世の脳裏に植え付けるには十分だった。戦争の不利を悟った女帝は、列強に働きかけ、和平交渉が行われた。イギリスとプロイセンが仲介に入り、8月にフィンランドのバララで和平が締結された。内容は、両国とも領土変更なしでの和平合意であった。
しかしスウェーデンは、イギリス、プロイセン、オスマン帝国から資金の提供を受けており、実質的な勝利国と同等となった。また、この戦争は、スウェーデンの国際的影響力を見定めさせる結果となった。ロシアは、スウェーデンに対し内政干渉を停止し、両国の関係は改善される事となった。おりしもフランスで起きた大革命が両国の関係を急速に改善させる結果となった。グスタフ3世は、ロシアに対し、敵対的政策を断ち、反革命の為に共闘していく事となった(反革命十字軍)。そして翌1791年10月にストックホルム郊外のドロットニングホルム宮殿で、ロシアと軍事同盟を締結した。これらの成功は、スウェーデンにおける中興の実を挙げた事の証明となったのである。
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