終末論
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終末論(しゅうまつろん)は、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。特にユダヤ教で生み出され、発展してきた世界観であり、それがキリスト教にも引き継がれている。
社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、仏教などアジアの宗教やゾロアスター教などにも同様の考え方がある。
[編集] キリスト教
キリスト教の終末論(英:eschatology)ギリシャ語の ta eschata(「最後の事物」)という言葉に由来)は、イエス・キリストの復活と最後の審判への待望という事柄に関わる。 キリスト教では、その目的が世の救済であるため、教義学では終末を歴史の目的として救済史という言い方もされる。
キリスト教のこうした救済をテーマにした歴史観は、宗教以外の社会科学や自然科学にも影響を及ぼし、カール・マルクスの唯物史観やチャールズ・ダーウィンの進化論にも、その影響の痕跡を見出すことができる。
ただし、ここで言うキリスト教とは“一般に言われる、俗世間の”という但し書きのあるものである。新約聖書学などの研究で明確になってきたところでは、実際のイエスの教えでは「既に神の支配が始まっている=神の国が実現されつつある=終末が来ている」という認識であり、異なるので注意が必要である。この点でもイエスは旧約聖書の預言者の教えとは異なり、神ヤハウェの理解で画期的なものである。 神学での「終末」には、個人的な救済の完成と、世界的な救済の完成の二つの意味が存在する。
スイスの宗教改革者カルヴァンの流れをくむ20世紀最大の神学者、教義学者カール・バルトも、主著『ロマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が『遅延する』ということについて…その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。…再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」という認識である。
[編集] 仏教
日本の大乗仏教では、その最後の時を末法の世といい、「正しい法が隠れ行われなくなる(自力で悟ることが正法・像法の時代よりも困難になる(一部では不可能とする))が、成仏するための阿弥陀仏(一部では末法の世にふさわしいものがあるとする)の力(一部では他力)を求め、念仏せよ」と説く(禅宗にも末法はある)。弥勒信仰に見られる下生信仰も、終末論の一種である。