織田信吉
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織田 信吉(おだ のぶよし、天正元年(1573年) - 慶長20年4月18日(1615年5月15日))は、織田信長の八男。母は興雲院(お鍋の方)。同母兄に織田信高がいる。官位は従五位下、武蔵守。
幼名は酌。その名は母のお鍋の方の「鍋」になぞらえて付けられたという。1583年に羽柴秀吉から近江国神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000石の所領を与えられる。1599年12月、豊臣家の大老から近江国内で2000石の所領安堵の朱印状を交付されている。
1600年の関ヶ原の合戦では西軍につき、戦後に改易される。その後、豊臣家を頼り、大坂城下で暮らす。また、豊臣家の滅亡後は京都で暮らした。この間に剃髪して道卜と号した。1615年4月18日京都にて死去、43歳。法名は省華院雲厳道ト。
一男一女があり、息子の了甫(左馬助、1602年-1665年)は僧、娘は紀伊徳川家の侍女や竹森清左衛門の妻となった。なお、了甫の子どもたちは、京極高国の家臣になっている。