ノート:自由意志
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訳文をくだけた文章にちょっとづつ直してます。文意が変わってしまった場合は容赦なくご指摘ください。Corwin 09:35 2004年2月27日 (UTC)
この項は英版訳のようですが、英版がそもそも精錬されていないのか、また、訳すことの難しさ、まずさもあって、非常に分かりにくくなってます。私自身、最初の数行訳しなおそうと思いましたが、「自由意志」の多義性すべてを正しく把握している自信がないので、やめました。以下は私が疑問、ないし間違いだと思ったところ。
- まず、頭の「自由意志は...学説である。」の部分について:doctorineを学説と訳されたようですが、まったく間違えてはいないものの、(「学説」の日本語での使われ方を考えた場合)日本語にフィットしていないと思います。「学説」として説明するならば、むしろ「自由意志論」ないし「-説」の方がフィットするように思います。「学説」でなくてもよいならば、「考え方」あたりが一番よいのかな?
- 次の文「つまり、不自由な行為はともかくとして何か他のもの「次第」であるという学説である。」は、その前後をよんでも、全く意味不明です。
- 第三文「この「我々次第」 (up to us) というフレーズは、故意に曖昧であり...」:なぜ「故意に」あいまいであるのか分かりません
- 次の段落の、「決定論(けっていろん)においては、各事態はすでに起きた全ての事態によって要請されている(決定されている)と考える。言い換えれば、次に起こることは以前起きたことによって完全に固定されており別様ではありえない、ということである。」について:正しそうでいて、なんかしっくり来ないのは私だけでしょうか?普通、決定論という言葉には「(自然、ないし神なども含めた超自然的な)要因によって、もともと決まっている」という意味が含まれると思うのですが、今の文が包括する意味に、それが含まれているのか疑問です。「すでに起きた全ての事態」に神や自然の摂理も含めれば別ですが。神(の決めたこと)、ないし、自然法則など、決定論における決定要因は、多くの場合、超時間的概念であって、それを、「すでに起きた全ての事態」という一元的な時間軸内に収めるところがしっくりこない理由だと思います。おそらく。他にもありますが、とりあえず以上、私も勉強してみますが、執筆者の皆様もよろしくお願いします。hans_castorp81 2005年12月2日 (金) 12:37 (UTC)
[編集] (無題)
Yuu6676です。以下に私見を提起します。
・決定論
ある条件Xについて、それが原因といえるかどうかを知りたい場合、その条件Xだけを除いた上で、状況を完璧に再現し、そこで別様の出来事が生じるか否かを試す必要がある。しかしこのような試験は不可能である以上、完全な決定論は理想にとどまる。
反面、原因がこれまでには見出されない場合、その出来事はひとまず自由であると推定しうる。そうではあるが、これから原因が発見されないという保証はない以上、完全な非決定論も理想にとどまる。
この点「決定論」とは、ある出来事が起こったという「現実性」に甘んじることなく、それを制約した条件があるはずであるから、できるだけ探し出して少なくとも「可能性」に到達せよ、そしてできれば条件をもれなく見出すことによって「必然性」に到達せよ、という課題を設定する理想といえるのでないか。
・意志の自由
ある状況下において、選択者Aは選択Aをなし、選択者Bは選択Bをなすはずという確信があったとする。ところが実際には選択者がAであるのに選択Bをなしたとする。この場合、その選択者は「自由」であると考えるか、さもなければその選択者はじつはAに変装したBであったと考えることで、その選択者は「自由でない」と考えることもできる。
ここで、選択者Aは選択Aをなすはずとの確信が、そもそもどうして成り立つかを問題としたい。ここでの選択者Aとは、じつは「集合としての選択者A」である。そうだからこそ、特定の選択者Xが「選択者Aという集合」に属したと仮定した場合、その選択者Aがとると定義されている選択Aを、選択者Xもとる「はず」だという確信が成立しうる。
・責任
自由意志論の文脈におけるかぎり、「責任を問われる者」は「賞罰を受ける者」を意味するようである。以下その仮定に立って論じる。
まず、「だれの責任(せい)か?」という問いは、そもそも事態を制御できた選択者が存在したはずだという確信を前提とする。この確信と矛盾するところの、事態を制御できた選択者は存在しなかったという可能性は、暗黙のうちに棄却されがちである。
次に、「意志が自由だからこそ賞罰を加えるのだ」という議論に対しては、「賞罰によって意志を変更しうるのも意志が自由ではないからでないか」との反論が可能である。とはいうものの、たとえ意志が自由であって賞罰が無効であろうとも、やはり賞罰を加えることは実益があるとの議論は成立する。少なくとも、賞罰を加えられる側でなく、加える側にとっては実益がある。一例としては、なんらかの災難を受けた人々が、生け贄を処刑することで、「彼はともかく我々は潔白である」という確信へ逃避するといった事例が考えうる。
(以上)—以上の署名の無いコメントは、Yuu6676(会話・履歴)氏が[2006年10月12日 (木) 01:07 (UTC)]に投稿したものです。
[編集] 本文の要約の試み
・概要
自由意志(じゆういし)は、行為が自由な選択のみによって決まるとする哲学説である。
・決定論 対 非決定論
決定論(けっていろん)においては、「こうでしかありえない」という必然性が貫かれる。そのため、「ありうる」という可能性ないし自由は排斥される。
非決定論(ひけっていろん)においては、「ありうる」という可能性ないし自由は排斥されない。
関連項目 ラプラスの悪魔
・非両立主義 対 両立主義
自由意志という言葉の用法について対立がある。
非両立主義者に属する哲学者は、「選択したとおりの行為をなし、かつ選択が自由である」ことを自由意志と解する。このタイプの自由意志は、自由を排斥する決定論と両立しない。
両立主義に属する哲学者は、「選択したとおりの行為をなす」ことを自由意志と解する。ここで、選択しなかった行為を強いられたり、行為者が狂気であってはならない。
・道徳的責任
道徳的責任を問うためには、自由意志が必要であるとの仮定にたつ。
非両立主義者は、自由選択を排斥するため、このタイプの道徳的責任を認めない。
両立主義者は、このタイプの道徳的責任を認めるが、行為者の性格の危険性を問題とする。
(以上)