藤原季能
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藤原 季能(ふじわら の すえよし、仁平3年(1153年) - 建暦元年(1211年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。父は太皇太后宮権大夫藤原俊盛。母は源雅兼の女。正三位、兵部卿。
藤原顕季を祖とする六条藤家の出身。後白河法皇の側近として活動し、治承3年(1179年)に平清盛が法皇を鳥羽殿に幽閉しその近臣一派を大量に解任した際には、一旦越後守の職を解かれている。しかしこの翌年、清盛の意向をもって法皇の身柄を八条坊門の自邸に迎えており、平家側からも一定の信頼を得ていたことが伺われる。この背景には、季能の妻が平基盛(清盛の次男)の娘であったことが関係しており、対立を深める法皇と平家の両者の狭間において、一種の潤滑油として作用する存在でもあった。
治承・寿永の乱を経て平家が没落した後も、法皇の傍に親しく仕えて一定の地位を確保した。文治元年(1185年)に源頼朝の介入によって宮廷内の実権が藤原兼実らの親鎌倉派に移った後も、高階泰経、藤原隆房、藤原実教らとともに法皇側近グループを組織して暗にこれに対抗したとされる。