藤原忠衡
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藤原忠衡(ふじわらのただひら、? - 1189年8月9日(文治5年6月26日))は、平安時代末期の奥州藤原氏の武将で藤原秀衡の三男。藤原泰衡の異母弟。庶長兄には藤原国衡がいる。通称、和泉三郎。泉ヶ城を居城としていた。
1187年に父・秀衡が没し、平泉に逃げ込んでいた源義経を父の遺言通り保護する。義経を立てて源頼朝に対抗するべきだと主張するが、意見が対立した兄の泰衡に攻められて殺害される。なお、中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は忠衡のものとする説があったが、昭和25年の実見調査で確認された晒首痕跡から、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している。
妻(佐藤基治・{信夫荘司}・の息女)は、忠衡の菩提をとむらうため、薬師如来像を奉納して出家し、妙幸比丘尼と称した。