藤原道隆
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藤原 道隆(ふじわら の みちたか、天暦七年(953年)~長徳元年4月10日(995年5月16日))は、平安時代中期の公卿。摂政、関白。中関白(なかのかんぱく)と称する。
天暦七年(953年)藤原兼家の長男として誕生する。母は摂津守藤原中正女時姫。同母弟妹に道兼、道長(いずれも摂関を歴任)、超子(三条天皇生母)、詮子(一条天皇生母)らがいる。傅大納言道綱は異母弟。
山城守藤原守仁女との間に第一子の権大納言道頼を儲けたが、道隆としては高階成忠女貴子(高内侍、儀同三位母)との間に生まれた、内大臣伊周・中納言隆家・権大僧都隆円・中宮定子ら諸子女を嫡系として優遇した。子女は他にも、右少将周家(道頼より年下の次男か)、左中将頼親、右少将好親らがいる。
永観二年(984年)八月、円融天皇譲位の同日に従三位に叙せられる。時に近衛中将。寛和二年(986年)六月、父兼家が摂政に就任すると正三位権中納言、翌七月従二位権大納言、永祚元年(989年)内大臣へと累進していった。道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、この間、永延元年(987年)十月、従一位に昇叙されるべき所を、男伊周正五位下叙爵のために譲った。
正暦元年(990年)正月、長女定子を甥である一条天皇の女御として入内させ、同五月八日に兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となった。十月に定子を中宮とし、帝の外舅そして岳父となった。正暦二年(991年)内大臣の位を弟道兼に譲り、摂関と大臣が分離する先例を作った。正暦四年(993年)四月二十二日に関白となる。
長徳元年(995年)正月、二女原子を皇太子居貞親王(後の三条天皇)の妃とし、後宮政策の強化を図ったが、同年重病に襲われ、三月九日、病気のため、嫡子の内大臣伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとした。しかし、伊周に関白の位を譲る事は一条天皇に許されず、四月三日関白を辞し、伊周の関白就任を奏上したがかなわなかった。同六日出家し、十日薨去。享年43。なお、死因については当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。
道隆没後、その遺志に反して弟道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。
『大鏡』・『枕草子』などによれば、道隆は大酒飲みで、軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、不羈な一面もあった。『大鏡』は、道隆が酔っ払って人前で烏帽子を外した頭を晒した話を伝えており、『古事談』には自分を父の後継者に推挙しなかった藤原有国を恨んで、関白就任後事件にかこつけて追放するなどの話が伝えられている。しかしその一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た上卿源俊賢は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 967年(康保4)10月11日、従五位下に叙位。 11月、昇殿を許される。
- 968年(康保5)1月13日、侍従に任官。 12月18日、左兵衛佐に遷任。
- 971年(天禄2)12月15日、右衛門佐に遷任。
- 973年(天禄4)1月7日、従五位上に昇叙。右衛門佐如元か?
- 974年(天延2)1月8日、蔵人に補任。 2月7日、伊予権介を兼任。 10月11日、左近衛少将に転任。蔵人・伊予権介如元か?
- 975年(天延3)1月7日、正五位下に昇叙。左近衛少将如元。蔵人・伊予権介も如元か?
- 976年(天延4)1月28日、備後権介に任ず。伊予権介を去るか?
- 977年(貞元2)1月7日、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。 1月、備中権守に遷任。左近衛少将を去る。昇殿を許される。
- 978年(貞元3)10月17日、右近衛権中将に任官。
- 979年(天元2)1月29日、備中権守を兼任。
- 981年(天元4)1月7日、従四位上に昇叙し、右近衛中将如元。
- 982年(天元5)1月7日、正四位下に昇叙し、右近衛中将如元。
- 984年(永観2)1月7日、従三位に昇叙し、右近衛中将如元。 8月27日、春宮(のちの一条天皇こと、懐仁親王)権大夫を兼任。
- 986年(寛和2)6月23日、春宮権大夫を止む。 7月5日、権中納言に転任し、皇太后宮(藤原兼家の娘、藤原詮子)大夫を兼任。右近衛中将如元。 7月9日、正三位に昇叙し、権中納言・皇太后宮大夫・右近衛中将如元。 7月13日、右近衛中将を去る。 7月20日、権大納言に転任し、皇太后宮大夫如元。 7月22日、従二位に昇叙し、権大納言・皇太后宮大夫如元。
- 989年(永延3)2月23日、内大臣に転任。 7月13日、左近衛大将を兼任。
- 990年(永祚2)5月8日、関白宣下。内大臣・左近衛大将如元。 5月13日、藤原氏長者宣下。 5月26日、関白を止め、摂政宣下。内大臣・左近衛大将如元。 5月30日、左近衛大将を辞任。
- 991年(正暦2)7月14日、内大臣を辞す。
- 993年(正暦4)4月22日、摂政を止め、関白宣下。藤原氏長者如元。
- 995年(正暦6)4月3日、関白・藤原氏長者を辞す。 4月6日、出家 4月10日、薨去。享年43
[編集] 系譜
- 父:兼家
- 母:藤原時姫(父:藤原中正)
- 妻:高階貴子(?-996)(父:高階成忠)
- 妻:藤原守仁女
- 長男:道頼(971-995)
- 妻:不詳
- 周家
- 頼親(972-1010)
- 好親
- 周頼
- 五女(三条天皇中宮妍子女房)
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