西宮球場
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阪急西宮スタジアム | |
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Hankyu Nishinomiya Stadium | |
施設統計 | |
所在地 | 兵庫県西宮市高松町 |
開場 | 1937年5月1日 |
所有者 | 阪急電鉄 |
グラウンド | 内野 - 天然芝(開場 - 1940年台) 黒土(1950年台 - 1989年) 人工芝(1990年 - 閉場) 外野 - 天然芝(開場 - 1977年) 人工芝(1978年 - 閉場) |
設計者 | 竹中工務店 |
建設者 | 竹中工務店 |
使用チーム、大会 | |
阪急ブレーブス(1937年~1988年)→オリックス・ブレーブス(1989年~1990年) | |
収容能力 | |
35,000人(1978年:人工芝完成記念パンフレットより) | |
規模 | |
両翼 - 101 m(ラッキーゾーン設置時は91.4m) 中堅 - 118.9 m |
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フェンスの高さ | |
西宮球場(にしのみやきゅうじょう)は、兵庫県西宮市にあった阪急電鉄が経営していた野球場である。正式名称は阪急西宮球場。
1992年に阪急西宮スタジアム(はんきゅうにしのみやスタジアム)へと改称されたが、経営難から2002年に閉鎖され、2004年から2005年にかけて取り壊された(「歴史」で詳述)。跡地は再開発により、2007年に複合商業施設などがオープン予定である(「再開発計画の概要」で詳述)。
目次 |
[編集] 歴史
- 1937年5月1日に阪急職業野球団(→阪急ベアーズ→阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス/現オリックス・バファローズ)のフランチャイズとして開設。当時としては珍しい、二階建てスタンド(日本初)と全面天然芝のグラウンドとしてプロ野球を中心に使われた。また、戦時中軍の命令により供出されるまで、バックスタンドに鉄傘がかけられていた。
- 1946年、甲子園球場がアメリカ軍の接収下にあったことから全国中等学校優勝野球大会(現:夏の高校野球大会)がここで開催。
- 1946年9月27日、セネタース-ゴールドスター戦で、球場は晴天にもかかわらずセネタースの宿舎が雨だったため、セネタースが球場に現れなかったことで、日本プロ野球初の放棄試合が宣告された。
- 1946年10月4日、同年5月20日から5月26日に当球場で開催されたパシフィック戦の4試合に対し、没収試合が宣告された。
- 1948年小谷正一(井上靖の闘牛のモデル)が宇和島の闘牛を呼び興行を行う。
- 1949年からは競輪場(西宮競輪/兵庫県市町競輪事務組合主催)としても使用。
- 1952年にナイター照明設備を完成。
- 1958年・1963年には全国高等学校野球選手権大会が甲子園球場との併催で開催された。これは両年が記念大会として開催されて大会出場校が47代表に拡大され、甲子園球場では消化しきれないための措置。
- 1965年スコアボードが、中央に大型のカラースクリーンを備えた物に改修される。
- 1972年9月、阪急ブレーブスの福本豊選手が当球場での南海ホークス戦で当時のシーズン世界最高記録となる105盗塁を達成。その試合で阪急のリーグ優勝も地元で決定し、花を添える。
- 1975年10月、日本シリーズ、当球場での第6戦で阪急ブレーブスが広島東洋カープを下し、4勝2分け0敗の成績でチーム発足40年目で念願の日本一を決め、1塁側スタンドから吊るされたくす玉割りやスコアボードの垂れ幕、グラウンド1周のセレモニーでファンから祝福された。(関連項参照)
- 1978年に外野部分に関西初の人工芝を敷設。また、バックスタンドの一部に銀傘が復活した。
- 1982年、スコアボードの電光掲示化(大型映像装置<通称アストロビジョン>つき)
- 1984年、西武・田淵幸一の公式戦最終試合。試合終了後阪急・西武両チームの選手から胴上げされる。この試合では多くの阪神ファンも駆けつけ、六甲おろしを歌って田淵の引退を惜しんだ。
- 1988年、阪急ブレーブスのオリエントリース(当時。現・オリックス)への球団譲渡決まる。最終試合のセレモニーで山田久志、福本豊の阪急黄金期を支えた両選手の引退が公表される。チームはオリックスとなったあとも引き続いて西宮球場をホームグランドにすることを発表。
- 1990年に内野も全面人工芝化され、西日本初のピッチャーマウンド昇降装置も設置。しかしこの年限りでオリックス・ブレーブスがグリーンスタジアム神戸(現:スカイマークスタジアム:神戸市)へフランチャイズ球場を移転。
- 1990年代前半には、正面入口手前にあった阪急電車の臨時きっぷ売り場が撤去される。また、同時期、南東側に隣接する、2軍(ウエスタン・リーグ)の試合を中心に使用された西宮第二球場、室内練習場、旧オリックス球団合宿所が閉鎖され、跡地が兵庫県、西宮市、住宅・都市整備公団、民間などに相次いで払い下げられる。現在は公団・県営・市営住宅などが建ち並び、特に阪神・淡路大震災で自宅を失った世帯に対する震災復興住宅としての役割を果たしている。
- 1991年から1993年 全国高等学校野球選手権大会大阪府大会の一部試合が開催される。これは大阪球場の野球場としての機能廃止(1990年)に伴い会場が大阪府下では不足しているための特例処置である。(他に奈良市鴻池運動公園野球場も)
- 1992年、「阪急西宮スタジアム」に改称。関西におけるアマ野球、アメリカンフットボールの主会場となる。また、ラッキーゾーンが撤去され、両翼が91mから開場当時の101mに戻された(当時の国内プロ野球公式戦開催球場の最長は東京ドームなどの100m)。なお、その後2005年に拡張されたフルキャストスタジアム宮城の101.5mに公称最長記録を更新されたが、実質的には333フィートで同じ規格であったと思われる。
- 1996年8月24日の阪神タイガース-広島東洋カープ戦を最後に、プロ野球公式戦での使用終了。
- 1998年、バックスクリーンのスコアボードを撤去し、旧スコアボード跡にガラス張りの競輪の特別観覧席を設置(後述)。なお大型映像装置は競輪運営本部上の配当金掲示板部分に移設する形で取り付けられた
- 2002年3月で西宮競輪の開催を廃止。
- 2002年7月、SMAPがコンサートとして使用する最後の公演を行った。
- 2002年12月31日、施設の老朽化などを理由に営業を終了。また、近接地には、アメリカンフットボールの試合会場として使われた西宮球技場、同じ阪急の系列会社の(株)コマ・スタジアムが経営していたゴルフ練習場や室内プールもあったがこれらも同時に閉鎖、解体された。又、西宮北口駅にあったスタジアム関連の看板は撤去され、西宮北口の駅名の下に書いてあった「西宮スタジアム前」という文字も削除された。阪急百貨店の正面にあった巨大看板もはずされ、西宮スタジアム前にあった一時自転車預かり所の名称も変更された。
- 2004年9月1日から始められた解体工事は2005年夏に完了した。
- 2005年11月4日、阪急電鉄が跡地に阪急百貨店を核とする複合商業施設の建設を発表。
[編集] 放送席の配置
ゴンドラ型になっており2階席のすぐ下に位置する。1塁側から順に関西テレビ・ニッポン放送・ラジオ関西・毎日放送・NHK・ラジオ大阪・朝日放送である。
[編集] イベントの開催
[編集] コンサート
マイケル・ジャクソン、マドンナ、ボン・ジョヴィ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、デュラン・デュラン、クイーン、サザンオールスターズ、おニャン子クラブ、GLAY、ザ・イエロー・モンキー、globe、SMAP、渡辺美里、矢沢永吉、浜崎あゆみ、ゆず等がコンサート時に使用したことがある。
コンサート使用として最後に使用したのも、SMAPである。コマのゴルフ練習場の間から球場内が見える所があり、そこからコンサートを覗く人が多かった。
また、一度だけカミングセンチュリーのCD発売記念のミニコンサートが開催されたことがあった。そのチケットは西宮サティ内にあったCDショップでCDを買った人が先着で貰えるという仕組みになっていた。
[編集] 3000人の吹奏楽
西宮スタジアム内で毎年5月頃に行われていた、関西テレビ放送主催の日本でも有数のマーチングイベント。西宮スタジアムの閉鎖に伴い、以降は大阪ドームで開催されている。 当初は近隣の阪神地区の学校や団体が多かったが、後に関西一円からの小、中、高、大学の吹奏楽部や自衛隊の音楽隊等が出場するようになった。 開始当初は「春の吹奏楽」という名称だったが、年々参加団体が増加し、「1000人の吹奏楽」→「2000人の吹奏楽」→「3000人の吹奏楽」と名称が変更になり、現在に至る。
[編集] キンダーフェスティバル
兵庫県、大阪府の幼稚園児が集まって、一団で踊ったりする運動会(マスゲーム)的なもの。主催は関西テレビ放送であるため、この模様は毎回、関西テレビで放映される。又、関西テレビのアナウンサーが司会進行を務める。現在は、大阪ドームで開催されており、2005年で第30回を迎えた。
[編集] 宝塚歌劇団の運動会
1922年にファンへの感謝を込めて、西宮スタジアムで開催されるようになり、第18回目から、10年ごとに開催されることになった。「花組」「月組」「雪組」「星組」「宙(そら)組」「専科・音楽学校」の6組に分かれ、リレーや綱引き、椅子とりゲームなどを繰り広げていく。2004年度は、大阪城ホールで開催された。
[編集] 西宮競輪場
[編集] 歴史
- 西宮競輪の初開催は1949年3月25日。当時はやぐらの上に木製のパネル120枚を張り合わせた300mのバンクとしてオープンしたが、パネルが安定せず振動で選手の力が極端に奪われることや、落車した時に木のささくれが肌に入り込んで擦過傷がひどいことなどから不評が相次いだといわれている。
- 競輪を始めた頃は常に大入り満員で、プロ野球公式戦より入場者が多かった。そのため、お盆の掻きいれ時はブレーブスより競輪の開催が優先されるようになった。ちなみに、これがオリックスの本拠地移転の理由の一つにもなってしまった。
- 1966年からアスファルトパネルに変更され、その年に全国都道府県対抗選抜戦(現在は廃止)が開かれた。その後走路は1978年(当球場に人工芝が敷設されるようになってから)に外野の人工芝部分にやぐらを立てて、距離も333m(いわゆる「サン・サンバンク」)で開催されるようになった。ただ、中にはこのバンクに相性が良く、西宮競輪ではいい成績を残した選手もいた一方で、トップレーサーの中には走りにくいからと、斡旋を拒否していた選手もいた。
- 甲子園競輪場とともに、1964年に廃止されるまで、他の競輪場では開催に及び腰であった女子競輪(女性選手によるレース)を積極的に開催した。
- 1978年と1984年には特別競輪(現在のGI)「オールスター競輪」が開かれた。
- 左中間からバックスクリーン寄りの部分には競輪開催のための運営本部と払戻金を表示するための電光掲示板が設置された(競輪以外の時は扉が閉まり、一時期は野球場用の広告看板が掛けられた)。1983年に大型映像装置がバックスクリーンに設置されるとオッズ表示、レースリプレーの上映も開始された。
- 元々野球場であったため空調完備の特別観覧席がなく(一部に設置していたが団体客などごく少人数しか入れなかった)、スタンド観戦では夏季は暑く冬季は寒い、とファンには不評であった。そこで、観客人員が減少していたこともあり、集客の目玉として、主要な野球の試合が行われなくなった1998年になると、大型映像装置を競輪の運営本部上部の電光板に代えて設置し、バックスクリーンを取り壊し、その跡地に全天候型・ガラス張りの特別観覧席を設置して、競輪場としての顔をより一層充実させた。
- 売り上げは1992年をピークに減少し続け、施行者である兵庫県の外郭団体兵庫県市町競輪事務組合の赤字経営も災いし、積立金も底を尽き出したことから、廃止が取りざたされるようになる。廃止止む無し、という情勢となったが、ファンのためにと、一転存続を決定する。ただ、その後は場内の観戦エリア・発売窓口が限定された。
- 経費削減などの努力もされたが、それでも収支が好転しなかったため甲子園競輪場とともに、兵庫県市町競輪事務組合が開催を廃止することを決定した。
- 2002年3月、毎年3月の恒例行事であった記念競輪(GIII)「阪急ダイヤモンド賞」(優勝者には阪急電鉄から副賞として、かつてあったダイヤモンドクロスに因んでダイヤモンドが贈られた)を最後に53年の歴史に幕を下ろし、またその追い討ちを掛けるように球場自体もその年の末閉鎖された。
[編集] エピソード
- 西宮競輪としては、開催日は入場料50円(場外発売日は無料)、後に出来た特別観覧席の入場料は2,000円であった。
- 開催日(甲子園競輪場開催分も含む)の早朝前売発売(7:30~10:00)では、特別にホットコーヒー・紅茶(夏季はアイスコーヒー・紅茶)がサービスされた(後に廃止)。また、毎年1月2日~4日開催の「新春阪急杯」では、こぶ茶がサービスされた。ちなみに、普段は緑茶のみ(特別観覧席では他にコーヒー、紅茶、ジュースなども)のサービスである。
- 元日を除いて非開催日でも西宮競輪・甲子園競輪の的中車券の払い戻し業務を行っていたが、そう頻繁に客が訪れるものでもないので、窓口の女性係員はヒマすぎてよく漫画を読んでいた(後に払い戻し業務は自動払戻機による機械化)。
- 甲子園競輪場とともに、選手側からは「日本一、野次の汚い競輪場」と言われていた。
- 競輪開催日前々日に競走路を組み立て、開催日が終わると解体し、バンクなど一式は敷地内の一角に固めて収められた。ちなみに、組み立て・解体にはそれぞれ約半日を要し、組み立てから解体までの一回の費用は約700万円であった。
- 野球場に仮設したバンクゆえにコーナーの傾斜角度が急だったこともあって、ルーレットゲーム盤の上に選手が高速で走ることに例え、ファンからは「ルーレットバンク」と異名された。この傾斜角度の大きさが、スタンドのどの位置から見ても必ずいずれかのコーナーが死角となってしまっていた。
- 選手控え室・入退場口が外野スタンド後方にあったため、選手は入場してから発走台に着くまでバンクを半周した。ただ、先頭誘導員は選手との事前接触を避けるため、バックネット側にあった誘導員用控え室から出入りしていた。発走台に選手が着いた後にトラブルなどで発走が遅れるようになった場合は、出場選手は3塁側ベンチで待機した。
- 1990年代後半まで、毎年正月・お盆の期間の開催は、レースとレースの間隔を空けて、最終レースの発走時刻を16:30(普段は16:10、晩年は16:00)に延ばしていた。
- 中央競馬で馬番連勝式馬券が好評だったことを受けて、競輪でも車番連勝式車券が導入された際には、全国で最も早く導入された競輪場のひとつであった。
- 1998年3月まで、開催当日の深夜にサンテレビにて「西宮・甲子園ケイリンアワー」が放映(15分番組)されていた。その日の後半レースのダイジェストが流され、翌日以降の車券作戦の参考になるよう配慮された。
- 最後の最後で、地元現役選手が外野スタンドに向けて競走用ユニフォームを投げ、ファンにプレゼントした(これは甲子園競輪場の最終開催日最終レース後にも実施)。なお競走用ユニフォームが現在使用されているものに変更されたのはこの直後。
[編集] 幻のナイター競走
- 1987年、お盆休みシリーズ(8月)の開催を、実現すれば日本の競輪史上初となるナイター競走として開催することが計画された。これは通常野球などの試合に使うナイター照明塔6基を使って、通常よりも4時間以上発走時刻を遅らせて、第1競走を夕方の15時台、最終競走を20時台に行うというものだった。
- しかし、競輪ファンと会社帰りのサラリーマン、また夏休みということで行楽帰りの利用者とが混在すると混雑が懸念されファンの確保が難しいことや警備上の問題などを理由に結局ナイター競走開催は実現に至らなかった。
[編集] 阪急商業学園
かつて、阪急百貨店が経営していた企業内教育施設。1957年、将来の優秀な社員を育成する目的で設立された。入学者は全員、阪急少年音楽隊として吹奏楽活動を行い、学園を卒業後は阪急百貨店に就職することになっていた。
阪急百貨店の行事(クリスマスの阪急グランドドームでのコンサート等)のほか、各種イベント、ラジオ、コンサートに出演し吹奏楽ファンのみならず、一般客からも人気を博した。
当初から長らく男子校であったが、1999年度から女子のみの入学となり最晩年は女子校となった。それに伴い、愛称も、阪急少年音楽隊から阪急商業学園ウィンドバンドに変更になった。
その後、阪急百貨店が学園運営から撤退し、2004年度からは高卒資格取得のための連携校だった向陽台高等学校が吹奏楽コースを新設し、向陽台高等学校ウィンドバンド(後述のリンクを参照)として継承されている。阪急西宮スタジアムの5、6階部分が校舎であり、よくスタジアム内で練習をしていた。
[編集] コマスイミングスクール・コマスポーツセンター・西宮コマゴルフ練習場
西宮スタジアムの敷地内の一部、スタジアム西~南西角に、コマスイミングスクール・コマスポーツセンター・西宮コマゴルフ練習場が存在した。これらはいずれも現在梅田芸術劇場(旧飛天、旧梅田コマ劇場)、シアター・ドラマシティー、新宿コマ劇場などを経営している(株)コマ・スタジアムの経営であった。
スイミングスクールとスポーツセンターは、元々ボウリングブームの最中に作られたボーリング場であったが、ブームが去った後にボーリング場を閉鎖、スイミングスクール(1977年4月オープン)、西宮コマスポーツセンター(同年7月オープン)に転用された。ボーリング場時代の建物をそのまま利用したので、とても外見はとても不思議な形をした建物であった。
これらは、スタジアム解体に合わせて2003年3月に惜しまれつつも閉場、後に解体された。
スイミングスクールとスポーツセンターは同じ建物内で行われており、特にスイミングスクールは、近所の子供達の多くが通っており、西宮サティ内にあった「ピープル」(現コナミスポーツ。西宮サティが閉店する前に移転している)との生徒集めの競争化が起こっていた。
西宮コマゴルフ練習場は、それらに先駆けて1973年にオープン。スポーツセンター南側に来客者用駐車場を挟んで、その南に存在した。土日などは多く利用者があった。
閉鎖された後、西宮で活動している、シネギミックという「西宮に映画館を作ろう」というスローガンをたて、活動をしている団体が、解体作業が始まっている中、「ファイナル・コマ・シネマ」と題し、西宮コマスイミングスクール内にて、一日のみ映画を上演した。
[編集] 再開発計画の概要
2005年11月に阪急電鉄がプレスリリースで発表した内容によると、
- スタジアム跡地(約9ha)に阪急百貨店、スーパー、シネコンなどが出店する、日本最大級のショッピングセンターを建設する。
- 2006年下期に着工、2007年度開業を目指す。
- 阪急百貨店は店舗面積2.5ha、シネコンは12スクリーンで計2200席、その他総合スーパーや専門店街を設け、総店舗面積10haに計250店舗が出店する予定。
となっている。
その後の西宮市議会における定例議会およびメディアの報道によれば、
- 敷地の一部を西宮市道球場前線と兵庫県道・大阪府道606号西宮豊中線をバイパスする新設道路とし、兵庫県に売却。
- 阪急百貨店(地上7階建て、25,000㎡)、スーパーおよびシネマコンプレックス(地上5階建て、約30,000㎡)、専門店モール街(地上4階建て、約38,000㎡)、および立体駐車場を含む複数の駐車場を建設。
- 阪急今津(南)線の高架化事業とともに着工することによりコストを圧縮。
となっている。
スーパーはイズミヤの出店が決定。イズミヤは衣食住全般を扱う総合スーパーの予定で、売り場面積は10,000㎡強となる。
[編集] 外部リンク
- 阪急ホールディングス ニュースリリース
- 向陽台高等学校吹奏楽コース
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