調布飛行場
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調布飛行場 | |||
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IATA:なし - ICAO:RJTF | |||
概略 | |||
空港種別 | 公共 | ||
運営者 | 東京都 | ||
開港日 | 1941年 | ||
運用時間 | 4月1日~8月31日 8:30 ~ 18:00 (JST) 9月1日~3月31日 8:30 ~ 17:00 (JST) |
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受け持ち | 東京都 | ||
海抜 AMSL | 138.8 ft (42.3 m) | ||
位置 | 北緯35度40分2秒東経139度31分56秒 | ||
滑走路 | |||
方向 | 全長 | 表面 | |
ft | m | ||
17/35 |
3,281 | 1,000 | 舗装 |
調布飛行場(ちょうふひこうじょう Chofu Airport)は東京都調布市にある飛行場。
目次 |
[編集] 歴史
1941年4月、現在の位置に軍民共用の飛行場として開設された。開設当初は、現在の滑走路とほぼ同じ位置のメイン滑走路(全長1000m・幅80m)と、メイン滑走路の南端で交わる東西方向の横風用滑走路(全長675m・幅80m)の合計2本のコンクリート舗装滑走路が存在した。
太平洋戦争中は専ら旧日本陸軍が使用した。特に1942年のドーリットル空襲後は防空拠点として重要視されるようになり、南は現在の味の素スタジアムのあたり、西は現在の警視庁警察学校のあたりまで、それぞれ拡張され未舗装の滑走地帯となった。戦争末期は、首都圏に飛来するB-29などを撃退するために戦闘機隊が配備された。中でも有名なのは三式戦闘機飛燕を装備した飛行第244戦隊で、京浜地区の空襲のたびに出動し、B-29に体当たりするなどして戦果を挙げているが、沖縄戦が始まると、244戦隊が特攻作戦支援のために九州へ転進したため、調布飛行場には偵察機のみが残された。
敗戦後はアメリカ軍に占領された。舗装滑走路は本来の飛行場として使用されたが、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は、当初、アメリカ軍の水耕農場として人糞堆肥を用いない衛生的野菜の生産場となり、その後、住宅施設「関東村」として転用された。1956年には舗装滑走路を含む東側地区が日本に返還され、東京都が管理する場外離着陸場となった。2001年3月には、法令上、「場外離着陸場」から正式な飛行場(「第一種空港」・「第二種空港」・「第三種空港」のいずれにも属さない「その他飛行場」)に昇格した。
2本の滑走路のうち東西方向の横風用滑走路のみ占領時代以降使用されなくなっていたが、1990年代前半まではどちらも航空写真などで旧軍時代の舗装跡をはっきり確認することができた。しかし「関東村」の跡地が国から払い下げられて開発がはじまると、旧滑走路や駐機場の舗装跡は撤去され、改めて現在の滑走路、駐機場、その他の付属施設を新設したため、旧飛行場の面影は現在ほとんど残っていない。現在、移築保存された旧飛行場の門柱と、飛行場周辺に残された戦闘機用掩体壕だけが確認できる。
[編集] 運航路線
[編集] 飛行場へのアクセス
[編集] その他
年に一回祭りが開催され、オークションやフリーマーケット、デモ飛行でにぎわう。 2006年は10月15日。少雨決行。 スタンプラリーや屋台も。
荒井由実の「中央フリーウェイ」では調布基地と歌われている。
戦時中の拡張工事の際には、近藤勇の生家が工事の邪魔となり取り壊されている。
飛行場北側の都立武蔵野の森公園内に残存している戦闘機用掩体壕は、復元整備され公開されている。
2006年9月に調布飛行場を舞台にした映画「調布空港」が公開されている。[1]
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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