重光葵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日~1957年(昭和32年)1月26日)は昭和前期の外交官・政治家。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。服役後、政界に再復帰した。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿 母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部卒。
[編集] 戦前の公務歴
各国において日本国公使として勤務していたが、1930年(昭和5年)には駐華公使として上海事変の収拾に尽力する。1932年(昭和7年)、朝鮮の独立運動家尹奉吉の爆弾テロにより右足を失う。その後、駐ソ公使・駐英大使を歴任。特に、日英関係が険悪化するなかで、関係改善に努力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っている。非常に正確なものだったといわれた。
東條英機内閣・小磯国昭内閣において外務大臣。東條内閣にあっては、大東亜省設置に反対したこと、東條総理のブレーンとして大東亜会議成功のために奔走したことで知られる。
[編集] 敗戦
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦ミズーリ号甲板上でおこなわれた、連合国への降伏文書調印において、日本政府全権として署名を行った。
太平洋戦争後の極東国際軍事裁判でA級戦犯として禁固7年の判決を受けて服役した。
[編集] 戦後の公務歴
1951年に出獄後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年に野党首班として総理大臣の座を吉田と争い2位。続く1953年の総選挙後、少数与党となった吉田茂の自由党からの連立の呼びかけを拒否、野党の首班候補として重光の総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず敗北。吉田との会談により、閣外協力を受け入れた。第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。ソ連との国交回復と、国連加盟に尽力した。1956年(昭和31年)12月18日、国連本部で日本代表として加盟演説を行う。
1957年、狭心症の発作により、神奈川県湯河原の別荘で死去。69歳。
[編集] その他
重光は上記の通り、駐華公使として赴任していたとき、第一次上海事変終結後の天長節の式典で起きた爆弾テロによって片足を吹き飛ばされたが、全く意に介さなかった。重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。ちなみに、同席して、片目を潰された海軍大将野村吉三郎は、のちに駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。
その後、公務に復帰した際に時の外務大臣広田弘毅は重光の体を気遣って当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命して、本来駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。だが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡外務大臣のもとで行われた主要国大使の一斉解任の際にも重光駐英大使だけは対象から外されたという)。また、極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だったといわれている。他方、東郷もナチスに嫌われた挙句に駐独大使を追われ、極東国際軍事裁判では「親独派」の疑い(この場合は親ナチス・ドイツの意味)をかけられている。広田の配慮が裏目に出る事となってしまった。
戦後、鳩山内閣で外務大臣を務めた際、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため、外交官出身の重光は、首相鳩山一郎との関係が悪化。また、鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には、駐ソ大使当時の事や日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。
[編集] 著作
- 『昭和の動乱』(上・下巻) 中央公論新社 中公BIBLIO文庫 ISBN 4122039185 ISBN 4122039193
- 『重光葵―外交回想録 人間の記録 (7)』 日本図書センター ISBN 482054246X
- 『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』中央公論新社 ISBN 4120035492