金為時
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金 為時(こん の ためとき、1017年(寛仁元年)? - 1088年(寛治2年)?)は、平安時代後期の陸奥国の豪族。父は為尚(ためなお、為直とも)、安倍貞任の舅と『十訓抄』に見える金為行(ためゆき)を兄弟とする系図が存在する。
金氏は、左大臣阿倍倉梯麻呂の後裔安倍為雄(ためかつ)が、871年(貞観13年)に気仙郡司であったときに郡内産出の金を朝廷に献上したことにより金姓を賜ったとされ、新羅王族の金姓との関連はないとみられている。子孫に大河兼任の乱時の金為俊(ためとし)がいる。
『陸奥話記』によると、陸奥国気仙郡の郡司として国司であった源頼義に従い、前九年の役で戦う。敵である安倍氏方には同姓の為行、師道、依方の名が見えることと兄弟との伝承のある為行が安倍貞任の舅であるとの史料があることから、陸奥在庁官人として藤原経清、平永衡らと同様に安倍氏と婚姻関係等を結び、一族として行動していたことが推定される。
1057年(天喜5年)9月、為時は下毛野興重らとともに頼義の使者として、釶屋、仁土呂志、宇曽利(現青森県東部~岩手県北部か?)の夷人の首(かしら)安倍富忠を調略し、味方に引き入れることに成功する。安倍頼時は富忠らを思いとどまらせようと自ら向かい利害を陳べようとするが、富忠の伏兵に攻撃を受け横死した。
その後も安倍氏は、頼時の遺児貞任を中心に戦い、戦いの帰趨は清原氏の援軍を待つこととなったためか、役後の1063年(康平6年)2月25日の除目に為時の名は見られない。