鈴木茂三郎
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鈴木茂三郎(すずきもさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は愛知県蒲郡市出身の日本の政治家。日本無産党書記長・日本社会党政調会長、書記長、委員長を歴任した。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
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[編集] ジャーナリスト時代
鈴木家は旗本・竹本家の代官の家柄だったが、茂三郎の父の代にはすっかり零落しており、そのため幼少期の茂三郎は非常に苦学しながら中・高等教育を修め、旧制・海城中学(現・海城中学校・高等学校)を経て1915年に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
大学卒業後は、ジャーナリストとなり、報知新聞社・大正日日新聞社・毎日新聞社などの記者となり、主に経済部に所属して、経済ジャーナリストとして知られた。1918年に特派員としてシベリアにわたるが、その際、シベリア出兵を企てる軍部の陰謀を目の当たりにしたことで、軍部に対する不信を強め、以後、一貫して戦争反対を主張していくことになる。その後も度々、特派員としてソ連を訪れてソ連の社会主義を目の当たりにしたことと幼少期に極貧生活を実体験したことから、次第に社会主義思想を身に着けるようになった。
[編集] 戦争への抵抗
1928年、新聞記者を辞めた鈴木は社会主義運動に専念するようになった。社会大衆党が軍部との関係を深め、国家社会主義的な路線をとるようになると、あくまでも戦争とファシズムに対する反対を貫き、加藤勘十らとともに1936年に労農無産協議会、1937年に日本無産党を結成した。しかし、あくまでも戦争反対の立場を貫く鈴木は政府の弾圧の対象となり、1937年の第1次人民戦線事件に連座して、検挙され、以後、1945年の日本の敗戦まで、政治的な活動の余地を奪われた。
[編集] 日本社会党の指導者として
1945年、日本の敗戦直後、日本社会党が結成されると、鈴木は左派の中心人物としてそれに加わった。1946年の総選挙で衆議院議員に初当選(以後、9回当選)し、1947年に政策審議会長、1949年に書記長、1951年に委員長と順調に党内での地位を固めていった。1948年に衆議院予算委員長だったときに、政府予算案撤回の動議を可決させて、片山哲内閣崩壊の原因をつくったとされているが、彼自身には内閣を崩壊させるつもりはなく、度重なる左派の造反に辟易した西尾末広に、片山内閣総辞職の口実として使われたのが真相のようである。
1951年に日本社会党委員長に就任した際の党大会で、最終日の1月21日、委員長就任演説で戦争反対を訴え、次のように演説した。「青年の諸君に対しましては、ただいま再武装論がございます。再武装を主張する当年六十余歳の芦田均氏が鉄砲を持ったり背嚢を背負うのではないのでございます。再武装をするとすればいわゆる青年の諸君が再武装しなければならないことは当然でございます。私は青年諸君はこの大会の決定を生かすために断じて銃を持ってはならない。断じて背嚢をしよってはならない」この演説は大きな反響を引き起こし、鈴木の演説は「青年よ再び銃をとるな」として標語となり、以後、日本の平和運動の象徴的な存在となった。実は、鈴木が平和運動を盛り上げ、それを口実にして、当時の首相・吉田茂がアメリカからの再軍備要求を退けるという役割分担が両者の間で出来ていたと言われている。この標語は、日本教職員組合にも取り入れられた。
1951年にサンフランシスコ講和条約の批准をめぐって、左右両派が分裂すると、鈴木は左派社会党委員長となり、分裂時、衆議院に16議席しかなかった左派社会党を1955年総選挙では89議席にまで躍進させた。その背景には、総評の支援を得ることが出来たことが大きかったが、厭戦感情の強かった当時の有権者の意識に、彼の非武装中立論がうまく適合したことも左派社会党の躍進に大きく貢献したと思われる。
1955年の社会党再統一にあたって、統一社会党の委員長となった鈴木は、右派の河上派と協力しながら、穏健な路線を追及し、自由民主党に代わる政権政党へと日本社会党を脱皮させようと努力した。しかし、1958年総選挙での伸び悩み・1959年参議院選挙での敗北を期に、左右両派の対立が再び党内で高まり、ついに1960年には西尾末広らが脱党して、民主社会党(のちの民社党)を結成した。その責任をとり、委員長を辞任した。
その後の鈴木は、構造改革論に反対するなど、教条主義的な言動が目立つようになり、1962年には社会主義理論委員会委員長に就任して、「日本における社会主義への道」の策定に携わり、日本社会党の路線の左傾化を推し進めた。1967年に政界を引退した。
[編集] 評価
戦前から戦後にかけて、戦争反対の立場を貫き、戦後の日本の平和運動の高揚に尽くした功績は大きいが、高度経済成長による社会の変化を理解出来ず、社会主義を日本の現状に合わせるのではなく、従来のマルクス主義の解釈を無理やり、高度経済成長期の日本社会に当てはめようとして、日本社会党の路線の左傾化を招いたことは政治家としての鈴木茂三郎の最大の失策であったと言ってよい。
[編集] 著書
- 『労農露西亜の国賓として』日本評論社出版部、1923年。
- 『日本型独占資本の展望』白揚社、1931年。
- 『新聞批判』大畑書店、1933年。
- 『日本財閥論』改造社、1934年。
- 『日本型独占資本の解剖』学芸社、1935年。
- 『財界人物評論』改造社、1936年。
- 『転換期を行く日本財閥の解剖』今日の問題社、1936年。
- 『財界人物評論』春秋社、1937年。
- 『男爵郷誠之助君伝』郷男爵記念会、1943年。
- 『愛と闘争』労働文化社、1949年。
- 『財政読本』実業教科書、1949年。
- 『ある社会主義者の半生』文芸春秋新社、1958年。
- 『私の歩んだ道』河出書房新社、1960年。
- 『忘れえぬ人々』中央公論社、1961年。
[編集] 参考文献
- 鈴木茂三郎『ある社会主義者の半生』文藝春秋新社、1958年。
- 大内兵衛・向坂逸郎監修『鈴木茂三郎選集』全4巻、労働大学、1970年。
- 鈴木徹三『鈴木茂三郎<戦前編>-社会主義運動史の一断面』日本社会党機関紙局、1982年。
[編集] 外部リンク
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