鈴木誠一
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鈴木 誠一(すずき せいいち、1936年12月23日-1974年6月2日)は、元日産大森ワークスに所属していたレーシングドライバーであり、また、日産サニーのA12型エンジンのチューナーとして名高い東名自動車(現 東名パワード)の創設者でもあった。日本では数少ないメカニカル技術を併せ持ったレーシングドライバーであった。血液型O型 愛称誠さん(せいさん)
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[編集] 経歴
1957年に通称浅間火山レースと呼ばれた大会にヤマハYA-1(通称赤とんぼ)を駆ってデビュー。それから間もなくバイク仲間とともに、後にモトクロスの名門と呼ばれるようになる城北ライダースクラブを結成し、各地のレースで大活躍をすることになる。1960年からはそのクラブの技術力と結束力が評価され、スズキと契約を結び、1962年にはロードレース世界選手権(世界グランプリレース)等(特に鈴木は軽量クラスを得意としていた)に出場、多くの好成績を収めた。1963年はメーカーの意向もあって海外でのレース活動はほとんどなく、国内のモトクロス等に多く出場している。
1964年5月の「第二回日本グランプリ」にひょんなことから出場することになり(これについてはエピソード項にて詳述)、ニッサンブルーバード、同セドリック、(城北ライダースとの関係で)スズキフロンテで4輪デビュー、それぞれ2位、10位、リタイヤという結果だった。
1965年からは本格的に日産大森ワークスドライバーとしての活動を始め、同年11月の「マカオGP」にブルーバードで出場、3位入賞を果たしている。さらに1968年からはストックカーレースに出場するようになる。
'68年には日産ワークスドライバーとしての活動と並行して、鈴木にとっては長年の夢であった、当時ではまだ珍しいチューニングカーショップ東名自動車(現 東名パワード)を、元城北ライダースの仲間とともに神奈川県川崎市に開業。セドリック(当時のストックカーレースで多く使われていた)やフェアレディ2000(当時のニッサンでスカイラインに次ぐスポーツカー)などのチューニングを始め、それらのマシンは瞬く間に各地のレースで好成績を収めていき、高い評価を得るとともに、鈴木自身も1968年から1971年末まで出場したストックカーレースで、3年連続でシリーズチャンピョンを獲得。さらに3年連続で本場アメリカのストックカーレースへの派遣選手に選ばれいずれも善戦するなど、公私共に充実した日々であった。
さらに1970年1月にデビューしたサニー1200GXを、同年11月のストックカーレース内の小排気量向けレース「Trans-Nics」用にチューン。鈴木はたった一台のサニーでトヨタワークスのカローラなどに挑み、見事優勝を奪ってみせた。これがニッサンのワークス関係者や若者達に、サニーがいかにレースに適した素性を持っているか示したことになる。これを期にワークスやプライベーターがこぞってサニーをレース用に仕立て、各地のレースで優秀な成績を収め、またトヨタ勢と死闘を繰り返し、ホモロゲーションの切れる1982年末まで活躍が続くことになった。
1973年からはこの時期最も賑わいをみせていた富士グランドチャンピオンレース(通称 富士GC、以下GC)にローラT292・BDAという組み合わせで出場することになった。当時のGCでは、マーチ73SとBMWM-12型エンジンとの組み合わせでないと勝てないといわれており(ヒーローズレーシングの黒沢元治が好例)、他の出場者もこぞってその組み合わせで出場しており、鈴木とローラが勝つのは困難だと見られていた。しかし鈴木は自らの手で一戦ごとに改良点を見出し、じっくりと熟成を進めていき確実に成績を上げていった。そして、同年11月の最終戦で予選3位からスタート後、上位2台を見事にかわし、最終的には2位を約30秒も引き離しGC初優勝。この際の平均時速202.002kmは、富士スピードウェイ6kmコース(30度バンクを含むレイアウト)での歴代3位の好記録となっている。(なおこのレースでは、スタート直後の多重クラッシュで当時24歳のヒーローズレーシングのルーキー中野雅晴(シェブロンB19・コスワースFVC)が焼死し、3人のドライバーが重度のやけどを負う大惨事になり、鈴木にとっては嬉しいはずの優勝もこのときは実にすっきりしないものだった)。
1974年、オイルショックの混乱もどうにか沈静化し行われた第1戦では、予選で事故を起こし最後尾からのスタートだったが、スタートから各マシンを次々に抜いて最終的には2位に入ってみせ周囲を驚かせた。また大森ワークスの後輩で、鈴木を慕いまた鈴木もその才能を見抜き期待していた星野一義が東名自動車からFJ1300にマーチ733・東名A12でデビュー。同じクラスのマシンをブッち切り、それまでのコースレコードを一気に塗り変えるという記録を作り堂々のデビューウィンを遂げた。後輩・星野の活躍もあり、鈴木にとっては実に幸先の良い1年のスタートであった。
しかし、同年6月2日のGC第2戦でスタート直後の30度バンク入り口付近での上位陣の接触が発端となった多重クラッシュに巻き込まれ、グランドスタンド前のガードレールに激突。マシンは大破し、炎上。他のドライバーの必死の消火作業も虚しく、当時最もF1に近いと言われていた風戸裕ともに焼死した。37歳。鈴木は事故発生に何ら関わっておらず、完全な“もらい事故”だった。
[編集] エピソード
- 鈴木が4輪デビューをするきっかけは、たまたまモトクロスレースを主催するに当たって優勝旗を作るために依頼した店の主人が田原源一郎だったことだという。田原は1963年の「第1回日本グランプリ」に日産フェアレディで出場し、外車勢を引き離し余裕の優勝を遂げ、その後SCCN(スポーツ・カー・クラブ・オブ・ニッサン)の会長をしていた。鈴木は田原と話をしているうちに「良ければ一度乗ってみないか」との誘いを受けたのだった。
- (経歴項にもあるが)鈴木は大森ワークスの後輩だった星野一義の才能を見抜いていたらしい。先輩や1歳年上の友人歳森康師にはフォーミュラマシンに乗る誘いが来るが、自分には来ないことに焦っていた星野が鈴木に相談。これが1974年のFJ1300の出場のきっかけとなった。鈴木は星野と半額ずつ出し合い桑島正美が売りに出していたマーチ733を購入し、東名自動車から出場する手筈をととのえた。星野は鈴木の期待に応え、FJ1300の記録を大きく塗り変える走りでいきなり優勝。その後「日本一速い男」と呼ばれるようになるきっかけを作った。
- 星野は東名自動車からFJ1300に出場するとともに、鈴木がGCに出場するマシンの慣らし走行(当時はベンチレーターが普及していなかったので、一定の時間同じ回転数で実際にマシンを走らせ、各部分を走行状況になじませていた)も担当していた。時折その回転数では到底出ないようなタイムを出し、鈴木以下東名自動車の人間を驚かせた。このことやFJ1300での結果から、鈴木は6月2日のGC第2戦を最後にレースから引退することを決意、そのシートを星野に譲ることにした。星野にも「次からはお前に譲る」と伝えていたという。引退を期して臨んだレースで、鈴木は不運にも落命してしまったことになる。
(1項目参考・オートスポーツ誌1972年6月号)