阪東妻三郎
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阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年12月14日 - 1953年7月7日)は、映画俳優。本名、田村傳吉。東京府南豊島郡角筈(現・東京都新宿区西新宿)出身。愛称は「阪妻」。
[編集] 来歴・人物
木綿問屋を商う親から生まれて、1916年高等科を卒業後、芝居の世界へと入門をして、1918年に初舞台を踏む。1923年、マキノ映画製作所結成にあたり、スカウトをされて 入社をする。寿々喜多呂九平脚本の『鮮血の手型』で主役デビューをして、同じコンビで発表した『影法師』は大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる。
その後、マキノ映画が消滅し、恩師である牧野省三監督が追放されると、阪東妻三郎プロダクションを設立する。1925年には、『雄呂血』を発表して、その虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇」の「バンツマ」として一世を風靡する。松竹と提携し、ヒット作を飛ばすが、阪妻のヒーロー像は次第にマンネリズムを生み、人気は徐々に低落をする。1936年『怒涛一番乗』を最後に12年続いた阪妻プロは ついに解散をする。
その後、活動の場を日活に移す。殺陣の軽快さは若かりし日の姿には及ばないものの、重厚な演技で主役を張り続けた。
トーキーに初めて出演した際に、甲高く細い声がファンの失望を呼んだことが人気低落の理由のひとつと考え、彼は一転トーキーを克服すべく、大声を出す練習を重ねる。努力の甲斐あり、再生一作目となる『恋山彦』前後篇では、剣戟王・阪妻の復活を告げる素晴らしい立ち回りを披露した。
その後も戦時中は『江戸最後の日』などの作品で、戦後になっても『王将』、『破れ太鼓』などの作品で、正真正銘の「スター」であり続けた。
1953年『あばれ獅子』撮影中持病の高血圧から体調を崩し、同年7月7日脳膜出血により死去。享年51。早すぎる死だった。
4人の子どもの内、次男の俊磨を除く長男の高廣・三男の正和・四男の亮の3人は俳優となり、彼達の活躍は現在に至る(高廣は2006年5月17日に77歳で死去)。
[編集] 主な出演作品
- 三好清海(1923年)
- 鮮血の手型(1923年)
- 雪の峠(1924年)
- 血桜(1924年)
- 逆流(1924年)
- 影法師(1925年)
- 三人姉妹(1925年)
- 落花の舞(1925年)
- 雄呂血(1925年)
- 魔保露詩(1925年)
- 牢獄の花嫁(1931年)
- 魔像(1936年)
- 血煙高田の馬場(1937年)
- 大楠公(1940年)
- 江戸最後の日(1941年)
- 将軍と参謀と兵(1942年)
- 維新の曲(1942年)
- 無法松の一生(1943年)
- 狐の呉れた赤ん坊(1945年)
- 王将(1948年)
- 破れ太鼓(1949年)
- あばれ獅子(1953年)