馬場頼周
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馬場頼周(ばばよりちか ? - 天文15年(1546年))は少弐氏の家臣。父は馬場頼員。妻は筑紫満門の娘。子は政員。
馬場氏は少弐氏の一門である。頼周は斜陽の少弐氏の忠臣として活動し、そのためには1524年、宿敵大内氏に属した岳父の筑紫満門を謀殺するなど非情な手段も辞さなかった。 1530年、田手畷の戦いでは、少弐方の武将として活躍し、杉興連率いる大内軍の撃退に貢献した。 その後、龍造寺氏が主家を凌いで台頭し、龍造寺家兼は少弐氏を裏切って大内義隆に通じ、1535年、少弐資元を自害させた。のち、家兼は少弐冬尚と和解して子の龍造寺家門ら一門とともに重臣として仕えていたものの、過去の裏切りと現在の専横に義憤を覚えた頼周は1545年謀略をもって家兼の一族の大半を誅殺することに成功した。しかし翌年、筑後国の蒲池鑑盛の元に逃れて反攻してきた龍造寺家兼の攻撃に耐えられず、子の政員は討死し、頼周自身は捕らえられ殺害された。なお、政員の妻は家兼の孫娘である。
馬場氏の跡は孫の鑑周が継いだ。