I-153 (航空機)
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I-153(ロシア語:И-153イー・ストー・ピヂスャート・トリー)は、ソ連の複葉戦闘機である。多くの優れた戦闘機を開発し「戦闘機の王様」と呼ばれたポリカールポフ設計局が設計した。「究極の複葉戦闘機」と呼ばれ、長期間に亙りソ連労農赤軍航空隊の主力機を務め、ノモンハン事件、フィンランドとの冬戦争、第二次大戦の初めまで使われた。当時の新技術であった引き込み脚と、当時としては強力な1000馬力級のエンジンを搭載していた。上翼が視界をえるためにガルウィングを採用したのでチャイカ(カモメ)という愛称で呼ばれた。
[編集] 概要
スペイン内戦に参加したI-15の戦訓から、I-15の発展型として製作された。1000馬力の空冷式のM-25エンジンに換装したI-15terが1938年秋に初飛行し、さらに強力なM-25エンジンに換装された。
1939年夏にはノモンハン事変に参加して日本軍の戦闘機と戦闘をおこなった。だが、九五式戦闘機や九七式戦闘機に対して劣勢を強いられた。
1939年に始まったフィンランドとの冬の戦いではソ連の主力機であった。後に独ソ戦で捕獲されたI-153はフィンランドに送られ、フィンランド軍機として、継続戦争でソ連と戦った。後 継機のI-16の登場後も長らく第一線機として運用されていたが、独ソ戦緒戦で多くのI-153は地上で破壊された。I-153の多くは、戦闘機としての運用の他に爆弾を搭載してシュトゥルモヴィーク(対地攻撃機)としても運用された。ソ連では、I-153を操る撃墜王も何人も誕生した。
だが、どのよう任務であれI-153は1941年の時点ですでにどうしようもないほど旧式化していたといわざるを得ないのが現実であった。戦闘機部隊ではその後I-153やI-16にかわりYak-1やLaGG-3を使用するようになり、シュトゥルモヴィーク部隊でもIl-2などが使用されるようになった。
I-153は、最終的に3500機ほどが生産された。I-153は「究極の複葉戦闘機」の名に恥じない優秀な機体であったが、時すでに複葉戦闘機の時代は去っていた。複葉戦闘機は格闘戦能力には秀でていたが、速度性能等でBf 109のような新しい単葉戦闘機にまったく歯が立たなかったのである。1941年にはさらに強力なエンジンをつけて計算では複葉機最速の速度580km/hをだせるはずの試作機I-195が計画されていたが、完成には至らなかった。