アート・ブレイキー
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アート・ブレイキー(Art Blakey, 1919年10月11日 - 1990年10月16日)は、アメリカ合衆国ペンシルバニア州ピッツバーグ出身のジャズドラム奏者。
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10代からバンドで活動しニューヨークへ進出。当初はピアニストであったが、ある時からピアノを断念しドラマーに転向したとの説もある。ある夜、クラブのボス(マフィアとの説も・・)がピアニストを連れてきて弾かせたら、アート・ブレイキーよりも優れた演奏をしたため、アートに「おまえはタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したとも噂もある。ただし、ドラムの腕も当初はたいしたことなくて、バンド仲間からはバカにされていたが、盟友であるトランペッターのディジー・ガレスピーがアドバイスをしたら、みるみるその腕があがったとの噂もある。
1944年からビリー・エクスタインの楽団へ入り、1940年代後半からマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演後、1954年から1955年にかけてホレス・シルヴァーと初代のジャズ・メッセンジャーズを結成。クリフォード・ブラウンやルー・ドナルドソンらを擁してジャズ・クラブのバードランドに出演して人気を博した。
1956年にシルヴァーが脱退しブレイキーは晩年までメッセンジャーズのリーダーとして活躍し日本でもファンキー・ブームを起こした一人である。この頃の代表曲は、モーニン、ブルース・マーチである。ジャズ・メッセンジャーズは基本的に2管または3管のフロント+3リズムのコンボ形式のバンドである。
ドラマーとしての一番の特徴はメリハリのあるバッキング(ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラロール」までの振幅)にあり、また、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとしても記憶されるべきだろう。
1961年の初来日以降何度も日本で演奏をおこない親日家としても知られる。メッセンジャーズにも70年代以降鈴木良雄、鈴木勲等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての細君の一人も日本人であったという。
また多くの新人を発掘するとともに多くの著名なミュージシャンが巣立った。50年代後半からはリー・モーガン、ボビー・ティモンズ、ウェイン・ショーター等が、60年代にはフレディ・ハバード、キース・ジャレット、チャック・マンジョーネ、等がメッセンジャーズ在籍をきっかけにスターになった。80年代に流行した新伝承派と呼ばれる若手プレイヤーを中心とした、モダン・ジャズムーヴメントで活躍したプレイヤーの多くがメッセンジャーズの出身である。第一線で活躍しているウィントン・マルサリス、ブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、マルグリュー・ミラー、ジェイムス・ウィリアムス、ロニー・プラキシコ、ケニー・ギャレットなどがメッセンジャーズの出身である。
彼の功績は多大で現在のジャズ界に多大な影響を与えた事は周知の事であるが、その功績に反して、晩年の聴力・体力衰弱に伴うリズムキープの衰えなどから、評価は賛否相半ばした。一方日本では、亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルの顔的存在ではあった。
[編集] 代表作
- "Moanin'" (モーニン)/アート・ブレイキー・アンド・ヒズ・メッセンジャー
- "A Night in Tunisia" (チュニジアの夜)/アート・ブレイキー・アンド・ヒズ・メッセンジャー
- "A night at Birdland Vol.1" (バードランドの夜 Vol.1)
- "A night at Birdland Vol.2" (バードランドの夜 Vol.2)
- "A night in Tunisia" (チュニジアの夜)
- フルリストは英語版を参考の事。
[編集] 外部リンク
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