エルコンドルパサー
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1999年11月28日 東京競馬場 |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1995年3月17日 |
死没 | 2002年7月16日 |
父 | キングマンボ |
母 | サドラーズギャル |
生産 | タカシ ワタナベ |
生国 | アメリカ合衆国 |
馬主 | 渡邊隆 |
調教師 | 二ノ宮敬宇(美浦) |
競走成績 | 11戦8勝(内海外4戦2勝) |
獲得賞金 | 3億7607万8000円 380万フラン |
エルコンドルパサー(El Condor Pasa)はアメリカ合衆国で生産され、日本で調教された競走馬である。4歳(旧5歳)時に海外遠征を行い、フランスのGI競走サンクルー大賞を勝ち、世界最高峰レース凱旋門賞で2着になるなど、日本競馬界に大きな足跡を残した。
同じ渡邊隆の所有馬でエルコンドルパサーという同名の競走馬が90年代の前半に存在したことがある。こちらはまったく活躍することなく競走馬生活を終えた。
目次 |
[編集] 現役時代
(注:現在の馬齢表記で表示しています)
[編集] 2-3歳時
デビューは1997年11月8日の東京競馬場、ダート1600mの新馬戦であった。スタートは悪く出遅れるものの、直線に入ると1頭だけ次元の違う脚を見せ、最後は7馬身差の圧勝。この日のメイン競走京成杯3歳ステークスでは、同期の外国産馬で後に3強と呼ばれたグラスワンダーが圧勝している。
年が明けて3歳になった1998年1月11日、2戦目の中山競馬場500万条件レースも9馬身差で圧勝。この頃からグラスワンダーに対抗し得る大物として認識されるようになる。ダートコースしか走っていなかった陣営は芝コースを経験させるべく共同通信杯4歳ステークスに出走させるが、雪のため東京競馬場芝コースが使えず、皮肉にもダートに変更となってしまった。レースではハイパーナカヤマが食い下がったが、初めて鞭を入れられるときっちり伸び、力の違いを見せ付けた。2ヶ月後にはNHKマイルカップトライアルのニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走、初めての芝のレースとなったが、出遅れながら圧勝。グラスワンダー(骨折で戦線離脱)のいないNHKマイルカップでは外を回って抜け出すという競馬でGI制覇を達成した。
秋は10月11日毎日王冠から始動。このレースには今もなお史上稀有の逃げ馬と言われる宝塚記念優勝馬サイレンススズカ、故障から復帰したグラスワンダーが出走し、当日の東京競馬場にはGIIとしては異例の13万人が詰めかけ、異様な盛り上がりを見せていた。くしくもグラスワンダー、エルコンドルパサー共に的場均(現調教師)がデビュー以来騎乗しており、的場がどちらかを選択するかが注目されたが、的場はグラスワンダーを選んだ(ただし、グラスワンダーに優先権があったとも言われている)。このためエルコンドルパサー陣営は蛯名正義に騎乗を依頼、このコンビは引退まで続くことになる。レースは予想通り、サイレンススズカの逃げで進み、エルコンドルパサーは直線でサイレンススズカに迫るものの、直線でなお脚色の衰えないサイレンススズカを捉えられず2馬身半差の2着と完敗。しかし3着以下は千切っており、力は見せた。一方グラスワンダーは直線失速し5着に終わった。
その後、次走はマイルチャンピオンシップ、ジャパンカップどちらに出走するかということで、馬主が調教師に「ジャパンカップに出走したい。マイルチャンピオンシップなら勝てるかもしれないのに、負けに行くようで悪いね」と言ったとDVDでは語られている。(馬主としては年度代表馬を取らせたかったらしく、ジャパンカップに勝てば選出の見込みもあると考えたとレース後に語っている[要出典])そしてジャパンカップに出走。2400mという距離に対する不安から3番人気にとどまったものの、力強い競馬で2着エアグルーヴに2馬身半差の快勝。同期の日本ダービー優勝馬スペシャルウィークが3着だったため、世代最強馬との評価も得た。そして年度代表馬は逃すものの、二冠馬セイウンスカイを抑えこの年の最優秀4歳牡馬に選ばれた。
なおこの最優秀4歳牡馬選出について、皐月賞、菊花賞という伝統と権威あるクラシック二冠を制したセイウンスカイを差し置いて、NHKマイルカップとジャパンカップのエルコンドルパサーが選出されるとは如何なものか、という声もあった。杉本清は「これではクラシックとは一体何なのかと言われてしまう」と嘆いた。しかしエルコンドルパサーはまた翌年、年度代表馬選出をめぐり大論争を巻き起こすことになる。
[編集] 4歳時
ジャパンカップを優勝したこと、またサイレンススズカ(天皇賞(秋)で予後不良)、タイキシャトル(引退)という1世代上の名馬がいなくなったことで、国内に敵なしと判断した陣営は海外遠征を決定。陣営は環境の変化に戸惑うことがないように飲料水、食べ物まで馬と共にコンテナに積んで運んだという。なお、エルコンドルパサーは4歳になりフランスに向け輸送された後、凱旋門賞を戦い終えるまで、一度として日本に戻されることなく現地で調教が施されている。
初戦のイスパーン賞ではクロコルージュに直線交わされ4分の3馬身差で敗れるが陣営には納得の競馬であった。次走はブリガディアジェラードステークスかサンクルー大賞のどちらかに出走という予定であったが、サンクルー大賞に出走した。
サンクルー大賞には前年の凱旋門賞馬サガミックスなど欧州の一線級の古馬が揃って出走してきたものの直線でそれらを全く寄せ付けずに圧勝。ヨーロッパのチャンピオンディスタンスのGIでの初の日本調教馬による優勝となった。ヨーロッパの競馬界でも凱旋門賞の有力候補と認識されるようになる。
2ヶ月休んだ後の次走フォワ賞でも出走馬が3頭で、他の2頭(ボルジア・クロコルージュ)にマークされるという苦しい状況の中勝利し、いよいよ凱旋門賞に向かう。
凱旋門賞ではその年のフランスのジョッケクルブ賞(フランスダービー)・アイルランドのアイリッシュダービーを制し、欧州3歳最強馬と評価されていたモンジュー、当年のキングジョージ及び愛チャンピオンSをそれぞれ圧勝していた欧州古馬チャンピオンであるデイラミが出走した。だが、当日レースの舞台となるロンシャン競馬場は史上最悪と言われる程、大量に水分を含んだ状態の不良馬場だった。デイラミは道悪を苦手とする馬だったため、実質エルコンドルパサーとモンジューの一騎打ちというのが戦前の評判であった。
レースはエルコンドルパサーが逃げる形の淡々としたペースで進み、エルコンドルパサーをモンジューが後方から見る格好となった。直線半ばではエルコンドルパサーが後続を突き放し、モンジューはまだ馬群の中という状況になり、快挙は近いとかと思われた。しかし残り200mで馬群を突破したモンジューが一気に追い込み、ゴール前でついにエルコンドルパサーを捉えて半馬身差でモンジューが優勝、エルコンドルパサーは2着となった。2着に敗れはしたものの現地メディアに「2頭チャンピオンが存在した」と勝ったモンジューに劣らぬ評価を受けた。日本国内でもシンボリルドルフ、サクラローレルなど歴代の最強馬が海外遠征でことごとく敗れてきただけに、歴史的快挙と評された。また、日本調教馬による凱旋門賞の最高着順記録は今もエルコンドルパサーが保持している。
このレースを最後に引退。1999年のジャパンカップ当日に引退式が開かれた。海外遠征での成績が評価され、1999年の年度代表馬にも選ばれたが、この年の国内GIをスペシャルウィークが3勝、またグラスワンダーがこのスペシャルウィークを二度下す形で2勝していたために、両馬を差し置いて国内のレースに1度も出走していないエルコンドルパサーが選ばれるのは不適当ではないかという意見も相次いだ。また記者投票の結果、一旦はスペシャルウィークが首位に立ったにも拘わらず、審議委員による決定でこれを覆しエルコンドルパサーを年度代表馬に決定した。ゆえに1993年にビワハヤヒデが選ばれた時以上の大論争となった。さらに顕彰馬の選出においても当馬とスペシャルウィークで票を二分し双方ともに顕彰馬に選出されない状態になっている。
[編集] 競走成績
年月日 | 競走名 | 着順 | 距離 | タイム(上り) | 着差 | 騎手 | 勝馬/(2着馬) | |||
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1997 | 11. | 8 | 東京 | 3歳新馬 | 1着 | ダ1600(良) | 1:39.3(37.2) | 7馬身 | 的場均 | (マンダリンスター) |
1998 | 1. | 11 | 中山 | 4歳500万下 | 1着 | ダ1800(不) | 1:52.3(37.5) | 9馬身 | 的場均 | (タイホウウンリュウ) |
2. | 15 | 東京 | 共同通信杯4歳S | 1着 | ダ1600(不) | 1:36.9(35.6) | 2馬身 | 的場均 | (ハイパーナカヤマ) | |
4. | 26 | 東京 | ニュージーランドT4歳S(GII) | 1着 | 1400(重) | 1:22.2(35.8) | 2馬身 | 的場均 | (スギノキューティー) | |
5. | 17 | 東京 | NHKマイルC(GI) | 1着 | 1600(稍) | 1:33.7(34.9) | 1 3/4 | 的場均 | (シンコウエドワード) | |
10. | 11 | 東京 | 毎日王冠(GII) | 2着 | 1800(良) | 1:45.3(35.0) | 2 1/2 | 蛯名正義 | サイレンススズカ | |
11. | 29 | 東京 | ジャパンC(GI) | 1着 | 2400(良) | 2:25.9(35.0) | 2 1/2 | 蛯名正義 | (エアグルーヴ) | |
1999 | 5. | 23 | ロンシャン | イスパーン賞(GI) | 2着 | 1850(重) | 1:53.8 | 3/4 | 蛯名正義 | クロコルージュ |
7. | 4 | サンクルー | サンクルー大賞(GI) | 1着 | 2400(稍) | 2:28.8 | 2 1/2 | 蛯名正義 | (タイガーヒル) | |
9. | 12 | ロンシャン | フォワ賞(GII) | 1着 | 2400(稍) | 2:31.4 | アタマ | 蛯名正義 | (ボルジア) | |
10. | 3 | ロンシャン | 凱旋門賞(GI) | 2着 | 2400(不) | 2:38.6 | 1/2 | 蛯名正義 | モンジュー |
[編集] 国際クラシフィケイション
126-T/L (1998年), 134-T/L (1999年)
1999年の134ポンドというレートは日本調教馬としては最高レート。1998年の126ポンドも日本国内で記録されたレートとしては最高値である(2位はいずれもクロフネの125ポンド)。
[編集] 種牡馬
引退後に、総額18億円のシンジケートが組まれ期待を集めた。ところが種牡馬生活に入った3年目の2002年7月13日、腸捻転を発症し死亡。彼が残した血は3世代の産駒だけとなってしまった。グラスワンダー、スペシャルウィークとの種牡馬対決が期待されていただけに、惜しまれる。ただ、最後の世代となった2003年生まれのソングオブウインドが菊花賞を勝利したことで、父系を残せる可能性が出てきた。
[編集] 代表産駒
[編集] 血統表
エルコンドルパサーの血統 (ミスタープロスペクター系 /Special(Lisadell) 4×3・4=25% Northern Dancer4×3=18.75% Native Dancer4×5=9.38%) |
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父
Kingmambo 1990 鹿毛 |
Mr.Prospector 1970 栗毛 |
Raise a Native | Native Dancer |
Raise You | |||
Gold Digger | Nashua | ||
Sequence | |||
Miesque 1984 鹿毛 |
Nureyev | Northern Dancer | |
Special | |||
Pasadoble | Prove Out | ||
Santa Quilla | |||
母
*サドラーズギャル Saddlers Gal 1989 鹿毛 |
Sadler's Wells 1981 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Fairy Bridge | Bold Reason | ||
Special | |||
Glenveagh 1986 鹿毛 |
Seattle Slew | Bold Reasoning | |
My Charmer | |||
Lisadell | Forli | ||
Thong F-No.5-h |
エルコンドルパサーの血統で特徴的なのが、SpecialとLisadellの全姉妹による近親牝馬クロスであり、これはオーナーである渡邊隆の意図による交配である。Kingmamboの配合を考えていた渡邊は常に繁殖牝馬のセリをチェックしており、その末に父の母方と母の母方にSpecialとLisadellの全姉妹クロスを持つSaddler's Galを発見した。この配合では更に全姉妹クロスが重なるのみならず、NureyevとSadller's Wellsの3/4同血クロスが発生し、極めて近親度の高い配合となる。この配合意図に関しては当馬の現役初期に激論が戦わされたが、結果的には目標を達成したといえる。
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