オーストリア継承戦争
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オーストリア継承戦争 (オーストリアけいしょうせんそう、英:War of the Austrian Succession, 独:Österreichischer Erbfolgekrieg, 1740年-1748年)は、神聖ローマ帝国の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。
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[編集] 背景
神聖ローマ皇帝カール6世は男系後継者を亡くし、娘のマリア・テレジアにハプスブルク家領(オーストリア)を継がせるため、女子の相続を認める国事詔書を出し、いくらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせた。またハプスブルク家は伝統的に神聖ローマ皇帝を世襲してきたが、女性は帝位に就けないので、マリア・テレジアの夫ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファンの即位を求めた。しかしルイ15世のフランス宮廷は、ハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会として背後で画策した。このためオーストリアと周辺諸国の間で戦争となった。
主にオーストリアを支援したのはフランスと対立するイギリスとオランダであった。後にザクセンとサルデーニャもオーストリアの側に立って参戦した。これと敵対する側に立ったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンであった。
[編集] 経過
[編集] 第一次シュレジェン戦争
1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が没すると、プロイセン王フリードリヒ2世は、皇帝選挙でマリア・テレジアの夫ロレーヌ公フランツ・シュテファンに投票することを条件にシュレージエン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めた。しかしオーストリアが拒否したため、1740年12月オーストリアの不意を突いてシュレージエンに侵攻し、たちまちこの地方を占領した。
マリア・テレジアはフリードリヒ2世の侵略に激怒し、体制を整えてシュレージエン地方の奪回作戦を実行する。1741年4月10日にモルヴィッツで決戦となったが、火力に勝るプロイセン軍にオーストリアの騎兵隊は敗れた。この敗北はハプスブルク家に対する各国の介入を招く結果となる。マリア・テレジアは孤立化を避けるために、1741年7月シュレージエンの大部分とベーメン(ボヘミア)の1郡をプロイセンに割譲する和約を結び、プロイセンの中立化を実現した。
[編集] オーストリア・ザクセン戦争
1741年、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト3世はハプスブルク家領の相続権(妃マリア・ヨーゼファはカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘だった)を主張してベーメンに侵入したが、和平交渉により間もなく撤退した。
[編集] オーストリア・バイエルン戦争
神聖ローマ皇帝位を狙うバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(妃マリア・アマーリアはヨーゼフ1世の娘だった)は、1741年チロル地方など上オーストリアとボヘミアを占領、1742年には神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠した。これにはバイエルンと秘密条約を結んだフランスが背後で動いており、フランスも一部兵力を出した。窮地に立ったマリア・テレジアは、当時ハンガリーの首府であったプレスブルク(現スロヴァキア首都ブラチスラヴァ)に赴き、ハンガリー議会で自らハンガリー貴族たちに支援を呼びかけた。ハンガリーは出兵を承認し、反撃に出たオーストリアは上オーストリアとボヘミアからバイエルン・フランス連合軍を追い出した上、バイエルンまで占領した。領地を奪われたカール7世は1745年、失意のうちに死去し、代わってフランツ・シュテファンが帝位に就いた。
[編集] 第二次シュレジェン戦争
シュレージエン割譲をオーストリアに認めさせたプロイセンのフリードリヒ2世はしばらく鳴りを潜めていたが、1744年ザクセンとベーメンに侵攻し、優勢なオーストリア・ザクセン連合軍を破った。しかしこの時大量のプロイセン軍兵士が投降したため、1745年ドレスデンの和約により撤退し、シュレージエン領有を確約させるだけに終わった。
[編集] フランス・オーストリア戦争
フランスはイギリス・オランダの参戦を抑えるため、両国には1744年まで宣戦布告しなかったが、この年オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)に侵攻し、オーストリア・イギリス・オランダ連合軍を破った。しかし1748年のアーヘンの和約によりこの地方から撤兵した。
[編集] オーストリア・スペイン戦争
当時スペインはフランスから迎えたブルボン家の王を戴いており、先のスペイン継承戦争でオーストリアに割譲した北イタリアのミラノ公国を奪回すべく、1744年に参戦した。スペイン軍は一時ミラノを占領したが、サルデーニャ王国がオーストリア側で参戦したため、目的を達成できなかった。
[編集] 海外での戦争
戦争は1744年から、カナダとインドでも英仏間の植民地戦争となった。北米ではイギリス植民地ニューイングランドが英国提督の指揮下でカナダ東部に出兵し、フランス側のルイブール要塞(現ノヴァスコシア州ルイスバーグ)を陥落させた。北米での局地戦は米国でジョージ王戦争(イングランド王ジョージ2世にちなむ)と呼ばれるが、折角占領したルイブール要塞は後にフランスに返還されている。一方、インドではフランスのインド総督デュプレクスがインド諸侯を傘下に収め、英領マドラスを占領するなどイギリス東インド会社に対して有利に戦いを展開したが、アーヘン和約によりマドラスは返還された(第一次カーナティック戦争)。デュプレクスは財政負担の大きいインドでの拡張主義を嫌う本国政府によって、後に解雇されている。
[編集] 結末
一連の戦争は1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。オーストリアはシュレージエンとイタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われたが、上オーストリア、ベーメン、オーストリア領ネーデルラント、ミラノなどはすべて奪い返してハプスブルク領の一体性を保持し、神聖ローマ皇帝位も確保した。相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの企ては見事に失敗し、英国との植民地戦争も中途半端に終わった。プロイセンのフリードリヒ2世のみがシェレージエンをオーストリアから奪い、数々の戦闘で軍事的才能を発揮し、大王と謳われた。しかし、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーはこの戦争で決着したわけではない。フリードリヒ大王の意図するのとしないにも関わらず、やがて七年戦争で再び同じ場所が戦場となる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- オーストリア継承戦争地図(英語)