コリントス
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コリントス(Κόρινθος, Korinthos, Corinth) は古代ギリシアの都市国家(ポリス)。コリント湾とサロニカ湾の間の地峡に位置する港湾都市。
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[編集] 歴史
[編集] 古代ギリシア・ローマ時代
紀元前9世紀、ドーリア人によって建設され商業都市として繁栄した。アプロディテを守護神としその祭祀で知られる。 ヘレニズム時代に繁栄した後、一時衰退したが、古代ローマ時代にローマの属領アカイア州の州都として再建され、繁栄を誇った。 キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛て先としても知られる。現在のコリンシア(Corinthia)に相当する。
コリントスは非ギリシア語源の語とみられ、おそらくドリス人以前の先住民族の語。ミケーネ文化の頃にはすでに繁栄していたと推測される。神話ではコリントスの創設者はシシュポス王であり、コリントスの王はその子孫であるとされる。神話ではまたイアソンがメデイアを離婚した土地ともいわれる。
古典期にはペロポネソス半島とギリシア本土をつなぐイストモス地峡に位置し、交通と交易の要衝として繁栄してアイギナと並ぶギリシャ世界の経済の中心となり、アテナイやテバイの台頭後も財力でこれらに並んだ。コリントスのアクロポリスには、街の主神であるアプロディテの大神殿が築かれた。複数の文献が、この神殿に雇われていた千人の聖娼について伝えている。コリントスはまた四大ギリシア競技会のひとつ、イストモス祭を開催した。
紀元前7世紀には僭主により統治され、シュラクサイを初めとする複数の植民地を建設した。コリントスはペルシャ戦争でのギリシア方の主要ポリスのひとつであったが、後にはこのとき同盟したアテナイと敵対し、スパルタとペロポンネソス同盟を結んだ。ペロポンネソス戦争の要因のひとつは、コリントスの植民市コルキュラをめぐるアテナイとコリントスの争いであった。軍事力に優れつつも経済的には脆弱だったスパルタの戦争継続能力維持を助けたのがコリントスの経済力であったと言われている。
紀元前146年、共和政ローマがコリントスを包囲の後、完全に破壊した。その後も少数の住民がかつてコリントスがあった場所に住み着いていたことが考古学的証拠から明らかになっている。ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前44年、植民市コローニア・ヤウス・ユリア・コリンティエンシス(Colonia Iaus Iulia Coloniensis コリントのヤウス・ユリア植民地の意)を再建した。これは同年カエサルが暗殺されるより少し前のことであった。アッピアヌスによれば、再建された都市の住民としてローマの解放奴隷が入植した。ローマ帝国の支配下で、コリントスは属州南ギリシア州(またはアカイア州、使徒行伝18:12-16)の政治の中心となった。コリントスは再び繁栄し、富をもって知られた。ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が住民として混住した。
使徒パウロは複数回コリントスを訪れている。1回目の滞在時、総督はセネカの弟のガリオであった(使徒行伝18:1-18)。パウロはこのとき18ヶ月コリントスに滞在した。2回目の滞在時、おそらく『ローマの信徒への手紙』が書かれた。
[編集] 東ローマ帝国時代
395年~396年のアラリック1世のギリシャ侵攻時、コリントスは彼によって略奪された都市の1つとなり、多くの市民が奴隷として売られた。
東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世治下、サロニコス湾からコリント湾まで大きな石壁が建てられ、都市とペロポネソス半島を北方の蛮族の侵攻から守った。石壁は、長さ約6マイル(10キロメートル)で、エグザミリオン(Examilion(exiはギリシア語で6)と名づけられた。この時代、コリントスはヘラス(現代のギリシアを意味する)のテマ(軍管区)の中心であった。
12世紀(コムネノス王朝の支配の間)、都市の富は、西ヨーロッパのラテン諸国との絹の交易から生み出され、ルッジェーロ2世治下のシチリアのノルマン人の注意を惹き、1147年に略奪されることとなった。
[編集] アカイア公国
1204年、第4回十字軍の有名な歴史家と同名の甥であるジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンが、コンスタンティノープルの陥落の後、コリントスを、アカイア大公の称号とともに与えられた。1205年~1208年にかけて、コリント人は、ギリシャの将軍レオ・スグロスの指揮の下、アクロコリントスの要塞に拠ってフランク人の支配に抵抗した。フランスの騎士、ギヨーム1世・ド・シャンリットが、十字軍を率いた。1208年レオ・スグロスはアクロコリントスの上から飛び降りて自殺したが、1208~1210年の間、コリント人は敵軍に抵抗し続けた。
抵抗の崩壊後、コリントスは、首都であるエリスのアンドラヴィダからヴィルアルドゥアン家が支配する公国の完全な一部分となった。コリントスは、他の十字軍国家であるアテネ公国と並んで、アカイアの北部国境の最後の重要な都市であった。
[編集] オスマンの支配
1458年、最後のコンスタンティノープルの陥落の5年後、オスマン帝国が都市と強力な城を征服した。
1821年~1830年のギリシャ独立戦争時、トルコ軍によって都市は完全に破壊された。都市は、ロンドン条約の後、1832年に公式に解放された。1833年、コリントスは、その歴史的な重要性と戦略上の要衝に位置することから新しく建国されたギリシャ王国の新首都の候補とされたが、その当時は重要ではなかったアテネが選ばれた。
[編集] 現在
古代コリントスがあったのは現在のコリントス市から内陸に数kmはいった丘の上である。現コリントスはペロポネソス半島で二番目に人口の多いコリンシア県の県都であり、コリントス市もペロポンネソス半島で二番目に人口の多い都市である。県の人口は129,000人 (1991年)。コリントス地峡を横断する運河を利用してコリンティアコス湾とエーゲ海に通じており、現在でも海上交通の要衝である。市の広場は小さい港に面し、外港へ連絡するボートが出る。