サラミスの海戦
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サラミスの海戦 | |
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戦争: ペルシア戦争 | |
年月日: 紀元前480年9月 | |
場所: ギリシアのサラミス島沖 | |
結果: ギリシア連合軍の圧勝 | |
交戦勢力 | |
ギリシア連合軍 | アケメネス朝ペルシア |
指揮官 | |
エウリュビアデス・テミストクレス | マルドニオス |
戦力 | |
386隻 | 684隻以上 |
損害 | |
40隻以上 | 200隻以上 |
サラミスの海戦(-かいせん、Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』に詳しい。
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。
目次 |
[編集] 背景
ペルシア遠征軍にテルモピュライを突破され、アルテミシオンから撤退したギリシア艦隊は、アテナイの要請によりサラミス島に艦隊を集結させた。これに事前にトロイゼンに集結していた他のギリシア艦隊が合流し、総指揮官エウリュビアデスのもと、主戦場をどこに置くかで合議を計った。アッティカが放棄されていたため、ほとんどの意見はイストモスでの戦闘を支持し、また、アテナイのアクロポリス陥落の一報が入ると、全軍が恐慌状態に陥ったため、ひとまずイストモスを決戦の場とすることで合議した。
しかし、テミストクレスは合議の後、指揮官エウリュビアデスに対してサラミスでの海戦を強く主張、サラミスでの決戦でなければアテナイ艦隊を引くと述べた。アテナイ艦隊の離脱を恐れたエウリュビアデスはサラミスでの海戦を決意したが、ペルシア艦隊が近付くにつれ、特にペロポネソスの部隊はイストモスでの開戦に意義を唱え、激しい論戦となった。
論戦の最中、テミストクレスは密かにペルシアのダレイオスのもとに使者を送り、ギリシア艦隊がイストモスに待避する準備をしていることを伝えた。彼はペルシアに内通することで戦争に負けた場合の活路を確保し、また、ペルシア艦隊をけしかけることによってサラミスでの決戦に到るよう仕向けたのである。
ペルシア側はテミストクレスの言葉を信じ、夜半、兵士をプシュッタレイア島に上陸させ、サラミス島のキュノスラ半島からギリシア本土までの海峡を船団で封鎖した。さらに、ディオドロスによるとエジプト艦隊200隻がサラミス島の外側を迂回してメガラに抜ける水道を封鎖した。ギリシア艦隊はペルシア艦隊の動きに全く気付かなかったが、アイギナから支援に駆け付けたアテナイのアリステイデスはギリシア艦隊が完全に包囲されていることを告げた。彼がサラミス島の決戦を主張したため、大半の人々はアリステイデスの言葉を信じなかったが、テノスの三段櫂船1艘がペルシアから離反してギリシア側に事実を伝えたため、ギリシア側はサラミスでの決戦を決意した。
[編集] 両軍の戦力
[編集] ギリシア艦隊
[編集] 三段櫂船
アテナイ軍: | 180隻 |
コリントス軍: | 40隻 |
アイギナ軍: | 30隻 |
メガラ軍: | 20隻 |
カルキス軍(アテナイ船籍): | 20隻 |
スパルタ軍: | 18隻 |
シュキオン軍: | 15隻 |
エピダウロス軍: | 10隻 |
アンブラキア軍: | 7隻 |
エレトリア軍: | 7隻 |
トロイゼン軍: | 5隻 |
ナクソス軍: | 4隻 |
ヘルミオネ軍: | 3隻 |
レウカス軍: | 3隻 |
ケオス軍: | 2隻 |
ストゥラ軍: | 2隻 |
キュトノス軍: | 1隻 |
テノス軍: | 1隻 |
クロトン軍: | 1隻 |
レムノス軍: | 1隻 |
合計 | 380隻 |
[編集] 50櫂船
ケオス軍: | 2隻 |
キュトノス軍: | 1隻 |
メロス軍: | 1隻 |
シプノス軍: | 1隻 |
セリポス軍: | 1隻 |
合計 | 6隻 |
[編集] ペルシア艦隊
[編集] 三段櫂船
合計 | 684隻 |
[編集] その他の艦船
クセルクセスが、サラミス島のキュノスラ半島からギリシア本土に船を繋いで船橋を作ろうとしていたことから、30櫂船・50櫂船・馬匹輸送船は、まだかなり残存していたと思われる。
[編集] 戦いの経過
紀元前480年9月20日ごろ(29日説あり)の明朝、ギリシア艦隊は停泊地より出撃し、逆櫓を漕いでペルシア艦隊とは逆の方向に向かった。しかし、アテナイ船1隻が戦列を抜けてペルシア艦隊に突っ込み、他の艦船もこれを救援すべく突入したことで戦闘が開かれた。実際の戦闘がサラミス水道のどこで行われたのかは不明であるが、プルタルコスによれば、テミストクレスは、この水道に一定の時刻になると吹く風シロッコするため、ペルシア艦隊を前にすると逆櫓を漕いで後退し、時間を稼いだとされる。ペルシア艦隊はこれを追ってキュノスラ半島を越え、サラミス水道に侵入したが、艦船への直接打撃を行うため喫水が深く重い造りのギリシア艦船に比べ、兵を敵船に揚げるために重心の高い造りとなっているペルシア艦船は、シロッコによる高波で、また、日没前にはマイストロと呼ばれる西風による高波で思うように動きが取れなかった。戦闘海域も大艦隊を誘導するには狭すぎ、戦列が乱れたところにギリシア艦隊の船間突破戦法を受けたと考えられる。 この戦闘で名声を得たのはアイギナ艦隊とアテナイ艦隊であった。アテナイの将軍アリステイデスは、サラミス海岸に配置されていた重装歩兵を率いてプシュッタレイア島に上陸し、ペルシア歩兵を全滅させた。敗戦を悟ったクセルクセスは、日没とともに艦隊をファレロン湾まで後退させ、戦闘は終結した。
[編集] 戦いの影響
クセルクセスは戦闘継続の構えを見せつつ、マルドニオスに陸上部隊を預け、自身はペルシア艦隊とともに撤退した。テミストクレスは直ちにクセルクセスの追撃をすべきとしたが、エウリュビアデスはクセルクセスの帰路を疎外すれば、かえってペルシア側が死にもの狂いで反撃にでる可能性を示唆し、これを諌めた。テミストクレスは追撃にはやるアテナイ艦隊を制止し、クセルクセスに対しては、伝令に走らせた部下に、自らがペルシア艦隊の追撃を阻止したと告げさせた。
サラミスの海戦での勝利により、ペルシア遠征軍の進撃は停滞し、戦争は膠着状態になった。しかし、地の利のないペルシア遠征軍は次第に苦しい立場におかれることになる。その意味で、このサラミスの海戦はペルシア戦争の転機であったと言える。
この戦闘に打ち勝ったアテナイは、強力な海軍力で地中海の制海権を押え、その後の覇権の基盤を築くことになった。この後、アテナイを中心とするポリスがペルシア来寇の為にデロス同盟を成立させたが、やがてこの同盟の維持はアテナイの独占によるものとなり、ペルシア戦争終結後は強国スパルタとの対立が激化することとなる。
[編集] 関連記事
[編集] 参考文献
- de Souza,Philip『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing
- ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(下)』(岩波文庫)
- 仲手川良雄著『テミストクレス』(中公叢書)
- 馬場恵二著『ペルシア戦争 自由のための戦い』(教育社)