ジャッキー・チェンの醒拳
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ジャッキー・チェンの醒拳(ジャッキー・チェンのせいけん)は、1983年に製作された香港映画。チェン・チュアン監督、スー・リーホワ、ロー・ウェイ製作。上映時間80分(日本版)。
1980年に数シーンの撮影のみで未完になり(経緯は以下の通り)、過去の作品からのシーン流用やダミー俳優による追加撮影で完成した。シーン流用やダミー俳優という方式はブルース・リーの『死亡遊戯』を連想させるが、主演俳優が死亡していない状況では異例である。この事から、当時アジアでのジャッキー・チェン人気がいかに高かったかを窺い知る事が出来る。
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[編集] キャスト
- ジャッキー・チェン
- シー・チェン
- レン・シークアン
- ホエ・チャンリー
- ディーン・セキ
- ワイ・ティンチー
- リン・インチュ
[編集] 経緯
[編集] ロー・ウェイとの関係
1974年に『少林門』に出演後、一時期映画界を退いていたジャッキー・チェンは、1976年にロー・ウェイ(羅維)が立ち上げた映画会社・羅維影業公司と10本の映画出演契約を結び『新精武門』の主演で再デビュー、続けて『少林寺木人拳』『成龍拳』他数本に立て続けに出演するが、興行成績は今一つであった。当初ジャッキーはブルース・リーの後釜的な扱いで、シリアス路線で売り出しを図られていたのだった。
そんなときに当時新進気鋭のプロデューサーであった呉思遠に貸し出される形で2本の映画に主演した。それが『スネーキーモンキー蛇拳』(1976年)と『ドランクモンキー酔拳』(1978年)で、ジャッキーの本来のキャラクターであるコミカルな面を活かしたのが功を奏し、大ヒットした。ロー・ウェイも方向転換をせまられ、『拳精』、『カンニングモンキー天中拳』等コミカル路線で映画製作、ジャッキーは香港でスターダムにのし上がった。
[編集] 二重契約のトラブル
ジャッキーは、1979年にロー・ウェイと共同で豊年影業公司を設立、監督も兼任した『クレージーモンキー笑拳』を完成させた。その後、事実上ロー・ウェイとの契約は終了していたが、スターに育ててくれた義理もあり、『醒拳』の出演契約を結び、『―笑拳』に続いて監督も兼任する事になった。そんな時、彼は、ゴールデン・ハーベストから破格の契約金を提示され、かつて憧れの存在だったブルース・リーも所属し、海外へも進出を始めていたという点に魅力を感じ、ゴールデン・ハーベストとも契約を結んでしまう。
本作品の数シーンを撮影した後、ゴールデン・ハーベストに半ば軟禁される形で『ヤング・マスター』(1980年)の監督・主演、続いて『バトル・クリーク・ブロー』(1980年)『キャノンボール』(1981年)出演の為に渡米した。これらの行動はほぼ極秘裏に進められた為、香港ではジャッキーが「『醒拳』をドタキャンして行方不明」になったとして「失踪事件」騒ぎになった。
ロー・ウェイはこれに激怒し、契約違反だとして裁判沙汰になる寸前であったが、ジミー・ウォングが仲介役となり最終的に和解という形になった。