ジョディー・シェクター
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F1での経歴 | |
国籍 | 南アフリカ共和国 |
活動年数 | 1972 - 1980 |
所属チーム | マクラーレン, ティレル, ウルフ, フェラーリ |
出走回数 | 112 |
タイトル | 1 (1979) |
優勝回数 | 10 |
通算獲得ポイント | 255 |
表彰台(3位以内)回数 | 33 |
ポールポジション | 3 |
ファステストラップ | 5 |
F1デビュー戦 | 1972年アメリカGP |
初勝利 | 1974年スウェーデンGP |
最終勝利 | 1979年イタリアGP |
最終戦 | 1980年アメリカ東GP |
ジョディー・シェクター(Jody David Scheckter,1950年1月29日 - )は南アフリカ生まれのレーシングドライバー。1979年のF1ワールドチャンピオンであるが、これは2000年にミハエル・シューマッハが達成するまでの21年間、フェラーリでドライバーズ・チャンピオンを獲得した最後のドライバーであった。
息子のトーマス・シェクターが、IRLで活躍中である。
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[編集] プロフィール
1972年にF1デビューした後、数戦のスポット参戦を経て、1974年にティレルからフル参戦を果たすと、早くもそのシーズンのスウェーデンGPで初優勝を達成。「荒法師」との呼び名も高い。
1976年には、6輪車「P34」を駆り、スウェーデンGPでは、チームメイトのパトリック・ドゥパイエと共に、1-2フィニッシュを果たした。(これはF1の歴史において、「4輪でない」車が優勝した唯一の記録)この6輪ティレルは、同年初めて日本で開催されたF1世界選手権・イン・ジャパンにも出場したが、マシンには当時の日本での呼び名である「たいれる」の文字が書かれていた。
1977年には、この年より参戦を果たしたウルフチームへ移籍したが、いきなりデビュー戦となるアルゼンチンGPで優勝を果たしてみせた。
1979年にフェラーリへ移籍すると、一気にその才能が開花、3勝を達成し、初のワールド・チャンピオンを獲得した。この年はチームメイトのジル・ヴィルヌーヴもランキング2位になり、コンストラクターズ・チャンピオンも獲得するなど、フェラーリ勢がグランプリ界を席巻した印象であった。また、二人の関係は良好で、ヴィルヌーヴはナンバー2ドライバーとして、ナンバー1ドライバーだったシェクターを補佐した。
ところが、翌1980年のマシン「312T5」は駄作で、一転してフェラーリはコンストラクターズ10位に沈む。前年に113ポイントを獲得したというのに、この年はわずか8ポイントにとどまったのである。シェクターも走らないマシンに手を焼き、何と終盤のカナダGPではまさかの予選落ちを喫してしまう。この為、シェクターはこの年限りでF1から引退してしまった。
その後は、ビジネスの傍ら軍事評論家としても活動し、湾岸戦争ではCNNに出演し、往年のファンを驚かせた。