スターリング・モス

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スターリング・モス
F1での経歴
国籍 イギリス
イングランドの旗 イングランド
活動年数 1951 - 1961
所属チーム HWM, ERA, コンノート,
クーパー, マセラティ,
メルセデス, ヴァンウォール,
RRCウォーカー, BRP,
ロブウォーカー
出走回数 66
タイトル 0
優勝回数 16
通算獲得ポイント 186.64
表彰台(3位以内)回数 24
ポールポジション 16
ファステストラップ 19
F1デビュー戦 1951年スイスGP
初勝利 1955年イギリスGP
最終勝利 1961年ドイツGP
最終戦 1961年アメリカGP
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スターリング・モスStirling MOSS, 1929年9月17日 - )は、かつてF1で活躍したイギリスのレーシングドライバーである。歴代の中でもトップドライバーに数えられる実力を持ちながら、結局一度もチャンピオンになることはなく、このことからしばしば「無冠の帝王」と呼ばれる。

目次

[編集] F1デビュー

F1世界選手権最初のレース1950年イギリスGPの前座レースで、最終ラップにエンジンを壊しながらも2位に入賞し、イギリス勢が著しく振るわなかったレースウィークにおける数少ない喜ばしい話題として多くのメディアに取り上げられ、イギリス国内で注目を浴び始める。翌1951年スイスGPにおいて、HWMからF1デビュー。

[編集] F1

キャリアの初期では恵まれないマシンで苦戦していたが、1954年途中のマセラティへの移籍で才能を開花。一躍トップドライバーとなるが、1955年から1958年まで4年連続でランキングは2位であり、チャンピオンには手が届かない状態であった。特に1958年には3勝を挙げながら、わずか1勝のマイク・ホーソーンに1ポイント差で敗れてタイトルを逃している。

これらのことは、母国を愛する気持ちから必要以上にイギリスチームに拘った結果であり、エンツォ・フェラーリから「タツィオ・ヌヴォラーリと比較に値する唯一の存在」とまで買われながらフェラーリに乗らなかったのも、この拘りからであった。(契約寸前までいったことがあるが、エンツォの尊大な態度に腹を立てて契約は成立しなかった。)当時彼が駆ったマシンはトップレベルとは言いがたいものであったが、その後も1959年から1961年まで、3年連続ランキング3位という結果を残している。

[編集] ドライバー引退

1962年、シーズン開幕前にグッドウッドで行われたノンタイトル戦で瀕死の重傷を負い、現役引退を余儀なくされる。ロータスをはじめとしたイギリスチームが、頭角をあらわし始めるのはその直後からであった。 

チャンピオンにならなかったにも関わらず、母国イギリスでは英雄的存在で「モスに手紙を書く際には、スターリング・モス、イングランド」という宛名だけで手紙が届く」という話もあるほどである。

[編集] 関連項目