スティーブ・ウィリアムス
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スティーブ・ウィリアムス(Steve Williams、1960年5月14日 - )は元プロレスラー。コロラド州レイクウッド出身。「殺人医師」(ドクター・デス、Doctor Death)のニックネームで知られた。
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[編集] 経歴
オクラホマでの学生時代からレスリングの才能を発揮しており、大学選手権4年連覇やオールアメリカンへの抜擢を受けるほどであった。
プロレス入りしたのは1982年。同年にダラスでアントニオ猪木と対決をしている。
初来日は1986年7月で、新日本プロレスに参戦したが、猪木と対戦した際に誤って失神させた上にまずいフォローをしてしまうという失態を犯す。その後1990年2月に全日本プロレスに参戦し、以降は全日本を日本での主戦場とし、最強外国人の一角として立ちはだかった。テリー・ゴディとのタッグは殺人魚雷コンビと呼ばれ、このタッグで1990年と1991年の2年連続で世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝するなど目覚しい活躍をした。また、このタッグで1992年7月5日にスタイナー・ブラザーズを破りWCW世界タッグ王座を、同年7月12日にはバリー・ウィンダム&ダスティン・ローデス組を破りNWA世界タッグ王座を獲得し、WCWとNWAの両タッグ王座の統一を果たした。テリー・ゴディのWCW退団後はストーン・コールド・スティーブ・オースチンとタッグを組んだ時もあった。オースチンの本名はスティーブ・ウィリアムスであり、同姓同名のタッグということになる。
ウィリアムスがシングル戦線に名乗りを上げたのは1993年夏、パートナーのゴディが内臓疾患により長期欠場し始めた頃からである。9月に三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦するはずだったゴディの欠場により、ウイリアムスと小橋の間で三冠挑戦者決定戦が行われ、ウィリアムスが勝利。この試合でウィリアムスが放った急角度のバックドロップを、全日本プロレス中継で実況の佐藤啓アナが「バックドロップドライバー」と表現した事は有名である。(補足:この試合での実況の評価が高かったからか、1994年9月に日本武道館で行われた同カードの三冠戦でも、佐藤アナは中京テレビから出張、実況を担当した。)。
その後、三沢に三冠戦で敗れたものの、翌年の1994年、チャンピオン・カーニバル準優勝の実績を残し、7月に再び三沢に挑戦。2年間にわたり王座を保持していた三沢を破り、遂に第11代三冠ヘビー級チャンピオンとなった。
1回の王座防衛の後、川田利明に破れ王座からは陥落したものの、既にピークを過ぎた感のあるスタン・ハンセンに代わり、ウィリアムスが全日本外国人ナンバーワンの座に就いた事は誰の目にも明らかであり、これから黄金時代を築いていくものだと思われていた。
しかし1995年、チャンピオン・カーニバル直前に「家庭の事情」という名目で来日キャンセル(実際は鎮痛剤の大量保持による入国禁止)。1996年、チャンピオン・カーニバルで1年ぶりの復帰を果たし、いきなり準優勝に輝いたが、技のキレがなくなった事を三沢に指摘されたり、パンチを多用し始めた事が批判の対象となり、トップに登りつめた頃の勢いを感じる事はできなかった。
小橋健太、ジョニー・エース、パトリオットがGETを結成すると、対抗してゲーリー・オブライト、ザ・ラクロスとともにTOP(Triangle Of Power)を結成し立ちはだかった。1998年6月を最後にWWFに移籍。しかし1999年、馬場の引退記念興行に参戦した後、2000年より本格的に全日本マットに復帰。全日本プロレスの選手大量離脱時にはベイダーなどプロレスリング・ノアに主戦場を移した外国人レスラーもいた中、契約金の高騰から常連参戦はできなかったものの、全日本プロレスに継続参戦する。2000年10月の新日本プロレスの東京ドーム大会での全日本プロレスと新日本プロレスとの対抗戦では、両団体の最強外国人レスラー対決としてスコット・ノートンと対決。必殺技のバックドロップでピンフォール勝ちを奪った。
その後2003年からはIWAジャパンをホームリングとし、2004年3月にはかねてから願望があった総合格闘技にも挑戦する。この挑戦は、咽頭癌の手術代を稼ぎ出すためのものであり、KO負けしたものの、それを非難する者はいなかった。2004年7月にIWAジャパンに来日した際に、自身が咽頭癌に罹っていることを公表する。一時危篤状態に陥るものの声帯を全摘出する手術を行い、療養のためにプロレスからの引退を決断した。
[編集] その他
- 全日本マットで脳天から叩き落とす危険な技の応酬のスタートをきっかけを作ったのはスティーブ・ウィリアムスである。93年の小橋との三冠挑戦者決定戦での殺人バックドロップがなければ、全日本のスタイルは変わっていたかもしれない。
- 2000年の全日本プロレス分裂で三沢ら離脱組の最後の売り興行けじめ参戦の時、ウィリアムスは三沢を襲う素振りをしていたが、実行はせず(亡くなった馬場は場外乱闘を嫌っていた為)三沢とは握手して別れた。仲田龍氏によるとこの襲う素振りがきっかけで後にNOAHのマットには上がる事ができなかった。
[編集] 得意技
- バックドロップ
- 高角度で落とすため、殺人バックドロップと呼ばれた(デンジャラス・バックドロップとも)。
- ドクターボム
- オクラホマスタンピート
[編集] タイトル歴
- 全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座
- 世界タッグ王座〈全日本〉
- NWA
- NWA世界タッグ王座
- WCW
- WCW世界タッグ王座
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