ドルゴン
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ドルゴン(多爾袞 1612年11月17日 - 1650年12月31日)は清初の皇族。ヌルハチの14子。順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮した。
ドルゴンの母はヌルハチの4番目の正妃であるウラ・ナラ氏出身の孝烈恭皇后で、ヌルハチが死ぬ際に殉死を命じられている。ホンタイジの下でモンゴルのチャハル部を討つことに功績を上げ、族内の実力者となる。
1643年、ホンタイジが死ぬと、ドルゴンとその同腹の弟であるアジゲとドドの派とドルゴンに反対する派に分かれて勢力争いが始まった。ドルゴンの実力は群を抜くものであったが、部族連合制の名残を色濃く残すこの時期の女真族は独裁的なやり方を嫌い、ドルゴンの皇帝即位に激しく反対した。ドルゴンも反対を押し切ることが出来ず、ホンタイジの9子であるフリン(順治帝)を皇帝とし、ドルゴンがその摂政となることで妥協した。その後、ドルゴンは族内の反対派を粛清し、皇帝に等しい権力を手に入れた。
翌年の1644年に明が李自成によって滅ぼされると、対清の最前線である山海関の守将であった呉三桂は清に対して、明の仇である李自成を討つための援軍を求め、ドルゴンはこれに答えて自分と弟たちの支配下にある軍と皇帝直属軍を率いて南下して、李自成軍を破った。李自成軍が逃げた後に北京に入った清軍は明の最後の皇帝である崇禎帝を厚く弔い、減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満州族の風習である弁髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めていった。1648年、その功績から皇父摂政王と呼ばれるようになり、1650年に狩猟中に死去し、追尊して義皇帝と称され、成宗の廟号を与えられた。
しかし、ドルゴンが死去すると、それまでドルゴンに押さえつけられていた反ドルゴン勢力が一気に噴出し、ドルゴンに大逆などの罪状が被せられ、爵位を剥奪・宗室からの除名が行われたが、乾隆帝の治世に名誉が回復されて忠の諡を贈られた。
ドルゴン死後の厳しい処置については、ドルゴンが兄ホンタイジの妻であり、順治帝の母である女性(聖母皇太后)を娶っていたからだとも考えられている。ドルゴンが順治帝の母を娶っていたかについてははっきりとはしないが、皇父と言うドルゴンの称号はそのことを伺わせる。兄嫁を娶る行為は儒教の感覚からでは非常な不義であるが、満州族のような中国の外の民族では珍しいことではなく、さして問題のあることでもなかった。しかし順治帝は幼い頃から非常に漢文化に傾倒しており、叔父と母の行動を許せなかったゆえに、死後のドルゴンに対してつらく当たったとも考えられる。