フアン・ペロン
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フアン・ドミンゴ・ペロン(Juan Domingo Perón, 1895年10月8日 - 1974年7月1日)は、アルゼンチンの大統領を2度にわたり務めた政治家で軍人。
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[編集] プロフィール
[編集] 軍人
アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス郊外で私生児として生まれ、16歳で陸軍士官学校へ進学。その後陸軍内で次々と出世し、1943年5月に副大統領兼国防大臣職に就任する。
アルゼンチンは第二次世界大戦には参戦せず、大戦中は一貫して中立国であったが、大戦中の1943年に副大統領に就任したペロンが露骨な枢軸国寄りの政策を取ったため、それを嫌ったアメリカが後押ししたエドワルド・アバロス将軍による軍事クーデターにより1945年10月に一時拘束された。
[編集] 大統領
しかし、後に2番目の妻になる元女優のエバ・ペロン(エビータ)が国民にラジオでペロンの釈放を訴えたことなどによりクーデターは失敗、1946年に大統領に就任する。大統領就任後は、労働者の保護や英米企業の国営化などの政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受け独裁政権を敷く。この政策から左翼ファシストと一般で評される。
[編集] 亡命
しかし、1952年7月に国民からカリスマ的な支持を受けた妻、エバが癌にかかり死亡すると、その3年後の1955年9月には海軍と陸軍が起こした軍事クーデターにより大統領の職を追われ、独裁者仲間のアルフレド・ストロエスネル大統領が国を治めるパラグアイ経由で、同じく独裁者のフランシスコ・フランコ将軍が君臨するスペインに亡命。亡命先のスペインで、ナイトクラブ歌手のイザベラと再婚する。
[編集] 大統領再任
ペロン本人は亡命したものの、その後も「ペロニスタ」(ペロン派・ペロン主義者)と呼ばれる支持者がアルゼンチン国内で影響力を持ち続け、亡命から18年近くも経った1973年7月に、前大統領が辞任したことを受け「ペロニスタ」政治家達がペロンに対しアルゼンチンに帰国して大統領選挙に出馬するよう請願。その後行われた大統領選挙にペロンが勝利し、同年の10月に再び大統領に復帰し、副大統領には自らの妻であるイザベラ・ペロンを就任させる。しかし、帰国後わずか1年後の1974年7月に病死する。その後、副大統領であったイザベラが大統領に就任するものの、1976年3月に起きた軍事クーデターで解任される。
[編集] 死後
死後30年以上経った現在も「ペロニスタ」はアルゼンチン政界において大きな勢力を持ち続ける。現在も「ペロン党」(正式には正義党)が存在し、議会内で大きな勢力を保っている。
[編集] 関連事項
[編集] 人物
[編集] その他
前大統領: エデルミロ・ジュリアン・ファレル |
アルゼンチンの大統領 1946 - 1955 |
次大統領: エドゥアルド・ロナルディ |
前大統領: ラウル・アルベルト・ラスティリ |
アルゼンチンの大統領 1973 - 1974 |
次大統領: イサベル・マルチネス・デ・ペロン |
カテゴリ: アルゼンチンの政治家 | 1895年生 | 1974年没