ブライアン・ジョーンズ
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ルイス・ブライアン・ホプキン・ジョーンズ(Lewis Brian Hopkin Jones, 1942年2月28日 - 1969年7月3日)は、イギリスのロックバンド、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト。グループのリーダーだった。
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[編集] 生涯
ブライアンは1942年、ウェールズ人の航空技師の息子としてグロスターシャーのチェルトナムで生まれた。彼は知能指数が135だった。17歳で学校を放校となるが、このときすでに2人の子供がいた。彼はジャズとリズムアンドブルースに夢中で、ロンドンに出てデパートの店員をしながらバンド活動をおこなっていた。
1962年の4月にブライアンはミック・ジャガーとキース・リチャーズに出会う。ブライアンのギターに衝撃を受けたミックとキースは、彼をバンドに引き込もうとする。まもなく彼らは行動を共にすることとなった。
ザ・ローリング・ストーンズは1963年6月にレコードデビューした。ブライアンはイギリスの白人聴衆に「本物の」リズムアンドブルースを聞かせることが目的だったが、キースはポップ・スターになることを目標にした。さらにオリジナル曲を量産するミック、キースに対しブライアンは曲を書かなかったため、オリジナル志向に移りつつあったバンドの主導権も次第にブライアンからミックとキースに移り、ブライアンは麻薬におぼれるようになった。 さらに彼のガールフレンドであったアニタ・パレンバーグをキースに取られ、決定的な精神ダメージを受けてしまう。
ブライアンの音楽的才能はギター、スライド・ギター、ハーモニカ、ピアノ、シタール、ダルシマー、メロトロン、木琴、マリンバ、リコーダー、クラリネットといった多彩な楽器の演奏に現れた。
1969年6月8日、ブライアンはバンドを脱退した。脱退直前のブライアンのバンド内での様子は、ジャン・リュック・ゴダール監督の『ワン・プラス・ワン』 One Plus Oneでの「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景の中で見られる。その頃にはかつての縦横無尽に楽器を演奏するブライアンの姿はなく、まるで病人のようであった。
脱退のほぼ一ヶ月後、7月2日の深夜12時を過ぎた頃、コッチフォード農場の自宅プールの底に沈んでいるブライアンが発見された。 (かつて、「クマのプーさん」の著者であるA・A・ミルンが住んでいた家) スウェーデン人のガールフレンド、アンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護士のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着したときブライアンはすでに死亡していた。検死官はアルコールとドラッグの影響で溺死したと報告した。ところが、ウォーリンはその後2000年に、サラグッドがブライアンを殺害したと主張した。1993年、サラグッドは彼の死の床で殺害を認めたと言われるが、確認がなされる前に他界した。
ストーンズは元メンバーの死を悼み、1969年7月5日にロンドンのハイド・パークでフリーコンサートを行った。同コンサートはグラナダTVで放送され、現在音楽ソフトとして発売されている。ブライアンの葬儀は7月10日に行われ、彼は生まれ故郷のチェルトナムに埋葬された。なお、彼の墓石には「僕に冷たくしないでくれ」と刻まれているとよく言われているが、実際には名前と生年月日が刻まれているだけである。
2005年には、スティーヴン・ウーリー監督によって、ブライアンの他殺説を映画化した『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』(原題: STONED)が発表された。
自己中心的な性格で、感情の起伏が激しかったといわれているが、それゆえに60年代のロックの象徴的存在として今も語り継がれている。
[編集] C・W・二コルとの関係
意外な接点ではあるが、日本に帰化し冒険作家として著名なC・W・ニコルはブライアンと同じ高校の卒業生である。二コルのエッセイ『C・W・ニコルと21人の男たち』によると、彼はブライアンが同じウェールズ人であるということで目をかけてやり仲良くやっていたという。また、ニコルはブライアンに柔道を教えたり、ブライアンがラップ人と一緒に暮らしたいという相談を受けたと懐古している。しかしブライアンが少女を妊娠させてしまったことに当時大学生だったニコルが憤慨して、両者の仲は亀裂が走りお互いに音信不通になった。二コル曰く「僕はまだ高校生のブライアンが女の子を自分の都合で妊娠させて、なんの責任も取らないで勝手にチェルトナムを去った行為が許せなかったんだ」と語っている(もっとも実際には妊娠した少女自身がブライアンと一切の接触を拒んでいた)。だが二コルはそれでも後輩のブライアンの行く末を案じていたという。
その後二コルは再びカナダに渡りフィールド・ワーカーとしてカナダの環境庁に勤務する。モントリオールのニコルをチェルトナムの旧友が訪ねた時、ブライアンがローリング・ストーンズのリーダーであることを知る。二コルは旧友が購入したローリング・ストーンズのレコードを聴き「ストーンズの曲は確かに騒がしく、カバー・アルバムのブライアンのの写真も馬鹿げた顔をしていてやたらに不機嫌そうだ。だけど僕は結構、曲は気に入ったものが多いね。特に「(I can't get no) satisfaction」は素晴らしかったよ。だってブライアンは誇り高きウェールズ人だもの。歌と曲はうまいに決まってるさ」と述べている。
やがて、28歳になった二コルはエチオピアで自然保護官となる。ニコルがパブで休憩していた時、たまたまストーンズの曲が流れ、彼は観光客のイギリス人に「ストーンズのブライアン・ジョーンズは僕の高校の後輩なんだよ」と自慢した。するとそのイギリス人は「気の毒にね・・・ブライアン・ジョーンズはドラッグで死んだそうだよ」と語った。それを聞いた二コルは顔色を変えて「なんだって?あの負けず嫌いのならず者のブライアンが?信じられない・・・ブライアンの馬鹿野郎!!なんで俺との約束を破ったんだ?何故、君がラップ人と暮らす夢を捨てミュージシャンとなってあんな悲惨な死に方をしたんだ?そうか・・・君は自曲のように『(I can't get no) satisfaction(俺は満足できない!)』という気持ちが強くて満足できずに死んだんだな。くそっ、俺はお前さんの尻を蹴り飛ばしてやりたいぜ!わかるかい?ブライアンよ、俺の気持ちが…」と濃いアラーキ(エチオピアのテキーラ)を痛飲して、その死を悲しんだという。
[編集] ソロアルバム
- 『ジャジューカ』 - Brian Jones Presents the Pipes Of Pan At Jajouka (1971)
[編集] 外部リンク
- The Official Brian Jones Fan Club
- Fans: Yahoo! discussion group of Brian Jones and other '60's stars
- Brian Jones Fans: Yahoo! group for Brian with a lots of photos
- Brian Jones Fans 2: Second part of the group with more photos od Brian
- Stoned: a new movie about Brian Jones (trailer)
- Brian Jones: A Rollin' Stone
- Master Musicians of Joujouka
- Brian Jones Fansite
- Brian Jones at Find-A-Grave
カテゴリ: イギリスのミュージシャン | ローリング・ストーンズ | 1942年生 | 1969年没