ルー・ホード
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ルー・ホード(Lew Hoad, 1934年11月23日 - 1994年7月3日)は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1950年代に活躍し、4大大会でシングルス4勝、ダブルス8勝を挙げた。フルネームは Lewis Alan Hoad (ルイス・アラン・ホード)という。
ルー・ホードとケン・ローズウォール(1934年11月2日生まれ)は同じ年で、ローズウォールが3週間早く生まれた。テニス経歴の初期から幼なじみだった2人は、まず1953年に全豪選手権、全仏選手権、ウィンブルドン選手権の男子ダブルスで3連勝を達成する。ローズウォールはこの年からシングルスでも勝ち始め、全豪選手権と全仏選手権では単複2冠を獲得した。ホードのシングルス成績は、1956年に最盛期を迎える。この年、ホードは全豪選手権、全仏選手権、ウィンブルドン選手権で4大大会3連勝を果たした。年間最終戦の全米選手権でも決勝に勝ち進んだが、ここではダブルス・パートナーの親友ローズウォールに敗れてしまい、1938年のドン・バッジ(1915年 - 2000年)以来の「年間グランドスラム」を逃した。この大会で、ホードとローズウォールのペアは男子ダブルスですべての4大タイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。(ホード&ローズウォール組の4大大会ダブルス優勝:全豪2勝、全仏1勝、ウィンブルドン2勝、全米1勝=総計6勝)男子テニスの歴史を通じて、同一ペアですべての4大大会男子ダブルス・タイトルを獲得した組は6組だけであるが、ホード&ローズウォール組はその1つに数えられる。1957年にウィンブルドン選手権で大会2連覇を達成した後、ホードはローズウォールと一緒にプロテニス選手に転向した。
当時の4大大会は出場資格がアマチュア選手に限定されており、プロ選手たちには別のトーナメント群があった。プロ選手たちは戦いの場を「全仏プロテニス選手権」(French Pro)/「全米プロテニス選手権」(US Pro)/「ウェンブリー・ワールド・プロテニス選手権」(Wembley World Pro)に移していく。1968年にテニス界が「オープン化」という措置を取り、プロテニス選手の4大大会出場を解禁するまで、現在とは違うシステムのもとで競技が行われていた。ホードはプロ選手に転向後も、様々な往年の名選手たちを相手に果敢な挑戦を続けたが、背中の故障のため1960年代にテニス・ツアーを退いた。1968年に「オープン化」措置が実施された時には、ホードはすでにテニス界から姿を消していたのである。
ルー・ホードは1954年全豪選手権の女子シングルス準優勝者、ジェニファー・ステーリーと結婚した。1980年、ホードは親友のケン・ローズウォールと一緒に国際テニス殿堂入りを果たす。引退後は妻とともにスペインでテニス・リゾートを経営したが、1994年7月3日に白血病のためスペインで59歳の生涯を閉じた。
[編集] 4大大会優勝
- 全豪選手権:1勝(1956年)
- 全仏選手権:1勝(1956年)
- ウィンブルドン選手権:2勝(1956年&1957年) [大会2連覇]
- (全米選手権準優勝1度:1956年)
[編集] 男子ダブルスの4冠達成ペア
- フランク・セッジマン&ケン・マグレガー (ともにオーストラリア、1951年に唯一の「年間グランドスラム」)
- ケン・ローズウォール&ルー・ホード (ともにオーストラリア、1953年 → 1956年)
- ロイ・エマーソン&ニール・フレーザー (ともにオーストラリア、1959年 → 1962年)
- ジョン・ニューカム&トニー・ローチ (ともにオーストラリア、1965年 → 1967年)
- マーク・ウッドフォード&トッド・ウッドブリッジ (ともにオーストラリア、1992年 → 2000年)
- ヤッコ・エルティン&ポール・ハーフース (ともにオランダ、1994年 → 1998年)
- ボブ・ブライアン&マイク・ブライアン (ともにアメリカ、2003年 → 2006年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: オーストラリアのテニス選手 | 1934年生 | 1994年没