一色義直
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一色 義直(いっしき よしなお、永享3年(1431年) - 没年不詳)は室町時代の守護大名。一色義貫の嫡男。幼名千徳丸。官途は従四位下、左京大夫、修理大夫。丹後・伊勢半国守護、尾張知多郡・三河渥美郡分郡守護。子は一色義春、一色義秀、斯波義寛室。弟に一色義遠。
永享12年(1440年)に父義貫が大和の陣中で足利義教の命を受けた武田信栄により殺害されると、一色氏の惣領には義教の寵臣で庶流の一色教親が就く。しかし、義貫の遺臣はその後も一色家嫡流の復興を訴え、各地で蜂起を繰り返す。嘉吉元年(1441年)の一色氏旧守護国三河・若狭での国人蜂起、翌年12月の延永氏の京都北野天満宮立て篭もり事件、文安元年(1444年)の氏家氏の叛乱未遂事件などがそれである。
宝徳3年(1451年)、一色教親は33歳の若さで没し、嗣子が無かったため、嫡流である義直が家督を継ぐこととなり、ここに義貫遺臣の願いは達成された。義直は教親の領国のうち、丹後・伊勢半国・尾張知多郡を受け継ぎ(尾張海東郡のみ外される)、更に旧一色氏守護国である三河国渥美郡分郡守護職に就き、同じく旧守護国若狭国小浜も知行地として手に入れる。
幕府においては、御相伴衆となり将軍足利義政の信頼を得、寛正年間は毎年2月17日に義直の京屋形に義政が訪れるのが慣例となっていた(『蔭凉軒日録』)。
しかし、応仁の乱では旧守護国若狭・三河を復旧するため、西軍山名宗全に味方したため、東軍を支持する義政により全ての領国の守護職を解かれる。本国丹後では新守護武田信賢と一色氏守護代延永氏の激戦が続き、伊勢でも新守護土岐政康と一色氏守護代石河道悟との合戦が続いた。逆に細川成之の領する三河には弟一色義遠が率いる軍勢が尾張知多郡から侵攻、ここでも激戦が続いている。
文明6年(1474年)4月、細川勝元と山名政豊の間で和議が成立すると、義直は東軍に帰順、隠退し、嫡男義春を幕府に出仕させる。同年、幕府は丹後守護職を義春に返付、勢いづいた丹後の一色勢は同国に駐屯していた武田勢を破り、旧領回復に成功する。三河では文明8年(1476年)、一色勢が細川成之の守護代東条国氏を自害に追い込み優勢であったが、成之はこの事件を契機に幕府出仕を拒否、結局、文明10年(1478年)2月、義直が三河を放棄する旨、文書で表明し三河の一色軍は撤退した。伊勢では、義春に半国守護職が与えられたが、これに反撥する北畠氏との戦いに敗れている。
三河を放棄した文明10年に義直は幕府に再出仕し、義春を後見したが、義春は文明16年(1484年)に19歳の若さで没し、丹後守護職のみ義直に再度与えられた。文明18年(1486年)8月、禁裏の意向により義直の知行地である若狭国小浜が武田国信に与えられると、抗議のため丹後へ下向、翌長享元年(1487年)の足利義尚による六角高頼攻めにも参陣せず、代理に子の義秀を参陣させた。
しかし、延徳3年(1491年)の足利義材による六角攻めには自身で参陣し、義材に代わり首実検を行っている。
明応元年(1492年)12月、義材の帰洛に従いしばらく在京していたが、翌明応2年(1493年)正月、丹後で伊賀次郎左衛門の叛乱が勃発、鎮圧のため下向し、以後の消息は不明となる。