応仁の乱
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応仁の乱(おうにんのらん、1467年(応仁元) - 1477年(文明9))は、室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。室町幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入するきっかけとなった(※)。応仁文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
※…以前は、応仁の乱以後を「戦国時代」と称していたが、今日では明応の政変(1493年)以後を戦国時代として、それ以前には曲がりなりにも室町幕府の影響力が維持されていたと考えられている。しかし、応仁の乱が室町幕府及び守護領国制の衰退と戦国時代へと向かう過渡期に至る大きな転換点であった事には間違いない。
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[編集] 経過
[編集] 将軍義政と義視
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満・足利義持の代に、将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしき、1441年に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権内のパワーバランスにほころびが見え始める。7代将軍に義教の嫡子足利義勝が9歳で将軍職を継いだが、僅か一年足らずのうちに急逝し、義教の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され、8歳で将軍職を継承した。
義政は、母日野重子や愛妾今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて育ち気まぐれな文化人に成長した。義政は、守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。
義政は打続く土一揆や政治的混乱に倦んで、将軍を引退して隠遁生活への移行を夢見るようになっていた。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立つ。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考慮して将軍職就任の要請を固辞し続けた。
1464年(寛正5年11月26日)、義尋は、義政が『今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない』と起請文までしたため、再三、将軍職就任を説得したことから、意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移ることにした。
[編集] 文正の政変
1466(文正元)7月、突然、義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。義廉と縁戚関係にあった宗全は、一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき、政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。
[編集] 勝元と宗全の対立
嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが、1458年、娘婿の勝元が宗全の勢力削減を図って赤松政則を加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていた。文正の政変で協力した二人であったが、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する二人でもあった。
1465年(寛正6)11月23日、義政と富子との間に足利義尚(はじめ義煕)が誕生すると、実子義尚の将軍職擁立を切望する富子は、宗全に接近し義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍する。当然、宗全は義視の後見人である勝元と対立し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分化させて、その衝突は避けられないものとなった。
[編集] 御霊合戦
このころ、管領職にあった勝元派の畠山政長と宗全派の畠山義就との間にあった家督継承権をめぐる闘争が激化し、さらに義政の気紛れが両派の対立に油を注いだ。1455年(康正元)のころ畠山家総領であった義就は、勝元の策謀によって義政から追放され、従兄弟である政長が替わって畠山家総領を継承した。
その後、義就が宗全を頼って復権を願い出ていたところ、1467年(応仁元年)正月2日、宗全に懐柔された義政が、政長や勝元に断ることなく、将軍邸の花の御所(室町第)に義就を招いてこれを赦免した。義政は政長へ追い討ちをかけるように、正月恒例の管領邸への『お成り』を中止して、同年正月5日に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席した。そこで義政は、義就の畠山家総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。
政長は反発して管領を辞任、後任は山名派の斯波義廉が就任した。勝元は義政から義就追討令を出させようとするが、義政夫人の日野富子が事情を察知して宗全に情報を漏らして失敗する。
政局を有利に運んだ宗全は、自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と花の御所を囲み、義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放を認めなかったものの、諸大名が一方に加担しないことを条件に、義就による政長への攻撃を認めた。義政から廃嫡され賊軍扱いされた政長は勝元に援軍を求めたが、勝元は後日の反撃を期してこれを断った。
正月17日、政長は無防備であった自邸に火を放つと、兵を率いて上御霊社(京都市上京区)に陣を敷いた。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全は後土御門天皇や後花園上皇らを室町亭に避難させ、義就に加勢する。勝元は義政の命を守って沈黙。
御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置していた。義就は釈迦堂から出兵し、加勢した斯波義廉、山名政豊、朝倉孝景らもそれぞれ攻撃。戦いは夕刻まで続き、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装い逃走、勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘、宗全のクーデターに終わる。
[編集] 東西軍の激突
御霊合戦ののち、、細川勝元は領地の四国9カ国から兵を終結させ、細川派の大名では赤松政則が播磨で山名領へ侵攻して守護職を奪還した。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固める。5月には武田信賢、細川成之らが若狭の一色氏の領地へ侵攻、都でも一色義直の邸や西軍諸将の屋敷を襲撃、斯波義敏は尾張から遠江へ侵攻する。4月には足利義視が調停を試みている。
5月、勝元は北陸に落ちていた政長を含む全国の同盟者に呼びかけ、花の御所を制し、戦火から保護するという名目で将軍らを確保、天皇、上皇を室町亭に迎える。勝元は今出川邸の自邸に本陣を置き、6月には義政に要請して牙旗を授与され、官軍の体裁を整えた。宗全は5月に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置く。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は、『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるとも指摘されている。
京都に集結した諸将は、北陸から信越、東海、九州の筑前、豊後、豊前が大半であったが、「東軍」には細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、地理的には優位を占めていた。逆に「西軍」は山名氏始めとしてこうした細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。中には義政側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行き的に参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。
一方関東地方や東北、九州南部などの地域においては、既に中央の統制下から離れた状態のまま、各地域内部において有力武家間の大規模な紛争が発生しており、この戦いとは全く無関係に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照のこと)。
[編集] 戦況の変遷と膠着化
当初、東軍が義政の支持を受けて「官軍」と号し、内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と義政を確保したこと、細川氏及びその支持者の領国が畿内周辺に集中していた事が幸いして戦いを有利に進めたが、 6月には細川領丹波国を制圧した山名兵8万が上洛、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7カ国の軍勢をはじめ、水軍を率いて入京、西軍が勢力を回復する。相国寺の戦いは激戦で両軍に多くの死傷者が出たものの勝敗を決することは出来なかった。
応仁元年8月29日、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具の元に身をおく。義視出奔の原因は、武衛騒動で追放されていた宿敵伊勢貞親が幕府に復権したことが一因とされるが、このころ義政や後見人の勝元が自らの廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたことが主な原因であろう。
約束どおり将軍職位譲を行わない義政、義視将軍就任のために積極的に動かない後見人勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。義視は、義尚誕生のときから幕府に身の置き場所をなくしていたのである。
その後、しばらく伊勢国に滞在した義視は、勝元や義政に説得されて東軍に帰陣するが、再度出奔して比叡山にのぼった。義尚擁立に転じた勝元が、穏便な形をとって義視を御所から事実上追放したのである。応仁元年11月23日、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎えいれると”新将軍”に奉り幕府の体裁を整え東軍に対抗した。更に西軍は北畠氏を通じて後南朝勢力にも協力を呼びかけた。
対立構図のねじれ、自己の利に従って離散集合をくり返す諸勢力。このような状況下で、身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東西両軍の戦いは膠着状態に陥っていった。その中で東軍配下の足軽骨皮道賢が後方攪乱などのゲリラ戦を試みたが、所詮、盗賊や凶悪人を多く含んだ集団に過ぎず、戦局を打開することは出来なかった。
1469年(文明元年)になると、大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯が石見国で離反、九州の大友親繁・少弐頼忠とともに大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、この動きは鎮圧されたものの、1471年(文明3年)には守護代でありながら西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政自らの越前守護職補任をうけて東軍側に寝返ったのである。
長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸守護大名は京都での戦いに専念できなくなった。こうして東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。
1473年(文明5年)になると、3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去し、12月19日には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。1474年(文明6年)4月3日に、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。
その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたものの、1477年(文明9年)11月11日に大内政弘が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し京都での戦闘は収束した。11月20日に、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され10年に及ぶ「応仁の乱」の幕が降ろされた。
だが、延べ数十万の兵士を都に集結させて11年にもわたり戦闘が続いたにも関わらず、主だった将が戦死することもなく、ただ惰性的に争いを続けてきた挙句に守護大名たちが獲得を目指していた「幕府権力」そのものが権威を失墜させてしまい、結果的に獲得するものは何もなかったのである。
[編集] 守護大名・豪族の動向
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていった。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙するが、時期によっては去就が異なる場合がある。主に1470年頃の状況に照らした去就を記す。
(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)
[編集] 東軍
[編集] 守護大名
- 細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
- 畠山政長:越中・(河内)
- 斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
- 京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
- 赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
- 山名是豊:山城・備後
- 武田信賢・武田国信:若狭・安芸(ただし、武田元綱を除く)
- 今川義忠:駿河
- 富樫政親:加賀半国
- 北畠教具:伊勢半国
- 大友親繁:豊後・筑後
- 少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
- 菊池重朝:肥後
- 島津立久:薩摩・大隅・日向(ただし、実戦には参加していない)
[編集] 豪族
[編集] 西軍
[編集] 守護大名
- 山名持豊および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中(ただし、山名是豊を除く)
- 畠山義就:河内(紀伊・大和)
- 畠山義統:能登
- 斯波義廉:越前・尾張・遠江
- 一色義直:丹後・三河・伊勢半国
- 小笠原清宗:信濃
- 土岐成頼:美濃
- 六角高頼:近江半国
- 河野通春:伊予
- 大内政弘:長門・周防・豊前・筑前
[編集] 豪族
[編集] 社会の変化
応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように、真の実力者の身分上昇をもたらした。時代は下克上が全国に拡散されて戦国時代に向かうことになる。残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。
応仁の乱終了後も山城国で政長と義就は戦いを継続したが、度重なる戦乱に対して民衆は国人を中心にして団結すると、勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に排除した。それは旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。
[編集] 旧勢力の没落と新興勢力の台頭
室町時代をつらぬくキーワードは、「旧勢力の没落と新興勢力の台頭」である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食され没落の一途をたどっていた。
また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は、3代将軍足利義満と6代将軍足利義教のときを除いて、成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。
こうした環境は、当時、長子による家督権継承が完全に確立されていなかったことも相まって、しばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。
男子長子による家督相続は、豊臣秀吉の天下統一以降に制度化したもので、江戸幕藩体制の中で確立し旧民法で法制化され戦後の民法改正まで継続したものである。
[編集] 参考文献
- 小川 信『山名宗全と細川勝元』(新人物往来社、1994年)ISBN 4404021062
[編集] 関連項目
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