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三島由紀夫 - Wikipedia

三島由紀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、日本の男性作家劇作家楯の会会長。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。榊山保名義の作品もある。東京市四谷区生まれ。学習院初等科から中等科および高等科を経て東京帝国大学法学部卒。卒業後、大蔵省国民貯蓄課に勤めたが9ヶ月で退職、作家として独立した。

代表作は『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』、『豊饒の海』。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。唯美的な作風で知られる。

目次

[編集] その生涯

[編集] 出身

三島由紀夫こと、平岡公威は、1925年1月14日東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に農商務省官僚平岡梓と倭文重(しずえ)の間に長男として生まれる。なお、三島の満年齢と昭和の年数は一致する。

父・梓は、一高から東大法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(のちの農林省)に勤務していた。なお農商務省では岸信介と同期入省であった。母・倭文重は、金沢藩主前田家の儒者を務めた橋家出身で父・健三は東京開成中学校の五代目校長を務めた人でありその次女であった。兄弟は、妹・美津子(1928年生まれ)、弟・千之1930年生まれ)がいる。

祖母・夏子の父は大審院判事の永井尚忠であり、母は常陸宍戸藩藩主、松平頼徳側室との間にもうけた娘・高。祖母は、その長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕える。永井荷風と三島由紀夫は、この夏子の実家を通じて遠い親戚に当たる。特に平岡梓の風貌は荷風と酷似しており、三島は蔭で父・梓を「荷風先生」と呼んでいた。

祖父の平岡定太郎は兵庫県印南郡志方町(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の出。東京帝国大学法科大学(英法)を卒業し内務省官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、満州でのアヘン取引に関わるスキャンダルで失脚。なお定太郎は夏目漱石と東大で同期にあたり、漱石の『それから』に登場する不倫相手の旦那(平岡)および『』の安井のモデルとされている。

公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は、夏子の影響下におかれている。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味をふくむ過保護な教育を行った。男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使ったという。家族の中で、夏子はヒステリックなふるまいに及ぶこともたびたびだった。また夏子は、歌舞伎泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家などの作家的素養を培った。 余談だが、カニが嫌い。

[編集] 幼少年期 <1925(大正14)年~1940(昭和15)年>

1931年に公威は、学習院初等科に入学する。当時学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に俳句を発表する。当時の綽名はアオジロ。虚弱体質で青白い顔をしていたことに由来する。しかし初等科6年の時、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという(三谷信『級友 三島由紀夫』1999年中公文庫、pp.36)。

1937年中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年には同雑誌に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)~秋彦の幼き思ひ出』と『座禅物語』が掲載された。1939年、祖母・夏子が他界。また同年第二次世界大戦が始まった。またこのころ、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会う。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年、アオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩『凶ごと』を書いた。このころの心情は、のちに短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。このころオスカー・ワイルドジャン・コクトーリルケトーマス・マンのほか、伊東静雄森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などの古典文学も愛読した。

[編集] 戦時下の思春期 <1941(昭和16)年~1945(昭和20)年>

1941年、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水とは、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。なお、同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。また清水に連れられ、保田與重郎と出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響下の詩や小説を発表する。後に美学の答えにに関して,保田與重郎に幻滅する。〈謡曲の文体に関して百科事典のようだ〉といわれ失望する。彼は「謡曲の絢爛な文体は裡に末期の意識を潜めたぎりぎりの言語による美的抵抗と考えていた(参照:『私の遍歴時代』筑摩書房刊)。1942年、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に進学。ドイツ語をロベルト・シンチンゲルに師事。体操物理を除けば、極めて優秀な学生であった。(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた。)同人誌『赤絵』を東文彦徳川義恭と創刊する。1943年、林富士馬を知り、以降親しく交際する。また同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。東文彦との友情は、『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)に詳しい。弔辞は彼が読み上げた。1944年、高等科を首席で卒業し、恩賜の時計を拝領。文学部への進学という選択肢も念頭にあったが、父平岡梓の慫慂で東京帝国大学法学部法律科独法に入学し、法学の論理的厳密性から文学面でも強い影響を受け、とりわけ團藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法の美しさに魅了される。同窓に元名古屋高検検事長の臼井滋夫、元神戸大学名誉教授の早川武夫らがいる。息子が文学に熱中するのを苦々しく思って妨害していた父ではあったが、彼を法学部に進ませることにより、三島文学に日本文学史上まれな論理性を与えたことは平岡梓唯一の文学的貢献であり、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として、『花ざかりの森』刊行に奔走。10月に出版された。本籍地の兵庫県加古川市(旧印南郡加古川町)で、徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。同級生の大方が特別幹部候補生として志願していたが、三島は兵卒として応召するつもりであった。このころ大阪の伊東静雄宅を訪うも、伊東から悪感情を持たれる。1945年、群馬県の中島飛行機に勤労動員。『中世』を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く。本籍地で入隊試験を受けるが、折からひいていた風邪を、軍医が肺浸潤と誤診。即日帰郷となる。以降、三島は複雑な思いを持ち続けることになる。このころ『和泉式部日記』、上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読する。このころ保田與重郎を批判的に見るようになった。同年『エスガイの狩』などを発表。遺作を意識した『岬にての物語』を起稿する。8月15日、敗戦。三島の「感情教育の師」とされる蓮田善明が陸軍中尉としてマレー半島で終戦を迎え、8月16日に軍用拳銃で自決。10月23日には、妹・美津子がチフスで17歳の若さで死去。このころ、のちに『仮面の告白』で描かれている初恋の女性(のち銀行員と結婚し、鮎川純太の伯母となる)とも別れている。

『東文彦選集』の序文で、彼との交友を振り替えながら、当時を文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代であったと、回顧している。自決直前の政治的言動とは、真逆な非政治的精神を培ったことを窺わせる。

[編集] 文壇デビューと『仮面の告白』 <1946(昭和21)年~1951(昭和26)年>

1946年、鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、『中世』『煙草』を渡す。「鎌倉文庫」の重役であった川端は、雑誌『人間』に『煙草』の掲載を推薦。これが文壇への足がかりをつかみ、以来川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は川端を先生とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』がようやく雑誌『群像』に掲載された。1947年1月、太宰治亀井勝一郎を囲む集まりに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。後に三島自身の解説では、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、とした。しかし、その場に居合わせた野原一夫によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。11月、東京大学法学部卒業。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、健康上の理由で不採用となった。しかし高等文官試験に合格し(成績は167人中138位であった)、大蔵省事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務するが、以降も小説家としても旺盛な作品の発表を行う。初の長編『盗賊』発表する。このころ林房雄と出会う。1948年、近代文学の第二次同人拡大に際し、参加する(このくだりは『私の遍歴時代』に詳しく叙述されている)。また、河出書房の編集者坂本一亀から書き下ろし長編の依頼を受け、役所勤めと執筆活動の二重生活の無理が祟って渋谷駅のホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には、創作に専念するため大蔵省を退職した(このホーム転落事故が原因でようやく、父の梓から官僚を辞める事、作家専念を許可される)。1949年7月、書き下ろし長編『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーショナルを呼び、高い評価を得て作家の位置を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年に、『禁色』を1951年に発表。戦後文学の旗手としての脚光を浴び、旺盛な活動を見せる。また1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発した(翌年8月帰国)。

[編集] 自己改造と『金閣寺』 <1952(昭和27)年~1957(昭和32)年>

世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見した三島は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼした。1955年頃からはじめたボディビルに代表される「肉体改造」。そして森鴎外に代表される古典的な「文体改造」である。その双方を文学的に昇華したのが1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした、長編小説『金閣寺』(1956年)と言え、三島文学の代表作となった。かたや三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。タイトルは流行語ともなり、映画化作品も多数制作され、文字通り文壇の寵児となる。また戯曲『鹿鳴館 (戯曲)』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲発表も旺盛で、文学座をはじめ演出、出演も行った。

[編集] 世界的評価と『鏡子の家』 <1958(昭和33)年~1964(昭和39)年>

1959年に三島は、書き下ろし長篇『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが、本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男は「最高傑作」と評価したが、平野謙江藤淳は「失敗作」と断じた。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折だったとされている。とはいえ文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇。『百万円煎餅』(1960年)、『剣』(1963年)などの短篇。『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。一方プライベートでは、1958年に、日本画家・杉山寧の娘、瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア調風コロニアル様式の新居を建築する(設計・施工は清水建設)。また、このころボディビルに加えて剣道を始める。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演(1960年)したり、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』の被写体(1963年)になったりと、肉体を露悪的積極的に自らさらした。またこの時期は、三島の文学がヨーロッパアメリカなど海外で評価されるようになり、舞台上演も多く行われた。以降、三島作品は世界的に評価されるようになる。三島には、国内での低い評価に対し、海外を意識し、理解者を求めた形跡がある。なお、1961年に発表した『憂国』は作者の意図を超えて、のちの作者自身に大きな影響を与えた一作となる。一方『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年~)での敗訴(のち、原告死亡に伴い和解)や深沢七郎風流夢譚』をめぐる嶋中事件右翼から脅迫状を送付され、警察の護衛を受けて生活する仕儀に立ち至る(1961年)など、さまざまなトラブルに見舞われた。弟の平岡千之は、このときの恐怖感が三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、という。『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)などと、文学と政治・思想にまつわる事件も多かったが、晩年のファナティックな政治思想ほどの関わりは持たなかった。1962年には、のちの『豊饒の海』の構想が固まってもいる。

[編集] 楯の会と『豊饒の海』 <1965(昭和40)年~1970(昭和45)年>

自らライフワークと称した輪廻転生譚『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年から連載開始された(~1967年)。同年には『サド侯爵夫人』も発表、ノーベル文学賞有力候補が報じられ、以降引き続き候補となった。同時に主演・監督作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年~1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。1966年12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループと交遊を含めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年には、その最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、F104戦闘機への試乗や『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊将校の山本舜勝とも交遊した。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。1968年、第三部『暁の寺』(~1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。1969年、戯曲『椿説弓張月』『癲王のテラス』を発表。東大全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦たちと激論を交わす。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。同年には、『論争ジャーナル』グループと決別し、「楯の会」はのちの三島事件の中心メンバーとなる。1970年11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバーとともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を撒き、演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。決起当日の朝、担当編集者に手渡した『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年の夏には既に脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。

[編集] 略年譜

  • 1925年(大正14年) 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市)。
  • 1931年(昭和6年) 学習院初等科に入学。成績は中の下。
  • 1937年(昭和12年) 学習院中等科に進む。成績、急に上昇する。同学友誌『輔仁会雑誌』に誌『秋二編』が掲載される。坊城俊民と出会う。
  • 1938年(昭和13年) 「輔仁会雑誌」に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)』『座禅物語』が掲載される。国語教師として赴任した清水文雄と出会う。オスカー・ワイルドジャン・コクトーを愛読する。
  • 1940年(昭和15年) 詩人川路柳虹に師事する。詩『凶ごと』を書く。東文彦と出会う。伊東静雄を愛読する。
  • 1941年(昭和16年) 『花ざかりの森』を『文芸文化』(同人は、清水文雄、蓮田善明、池田勉、栗山理一ら、斉藤清衛門下生)に掲載。文学をやることについては父平岡梓から猛反対を受けていたため、小説掲載が父に露見せぬよう「三島由紀雄」という筆名を名乗ろうと考えたが、「由紀雄という字面は重過ぎる」との清水の判断で「三島由紀夫」を初めて名乗る。『輔仁会雑誌』編集長となる。保田與重郎と出会う。
  • 1942年(昭和17年) 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊。
  • 1943年(昭和18年) 林富士馬を知る。東文彦死去。
  • 1944年(昭和19年) 高等科を首席で卒業。東京帝国大学法学部法律科独法入学。『花ざかりの森』刊行。徴兵検査第2乙種合格。
  • 1945年(昭和20年) 『中世』『エスガイの狩』発表。
  • 1946年(昭和21年) 川端康成の推薦で、川端創刊の文芸誌『人間』に短篇「煙草」を発表。『群像』に短篇「岬にての物語」を発表。
  • 1947年(昭和22年) 東京大学法学部卒業。高等文官試験に合格。席次は167人中138位。大蔵省事務官に任官。『盗賊』発表。
  • 1948年(昭和23年) 椎名麟三梅崎春生武田泰淳安部公房らとともに『近代文学』の同人となる。創作に専念するため、大蔵省を依願退職。
  • 1949年(昭和24年) 書き下ろし長編『仮面の告白』を発表。高い評価を得て作家の位置を確立する。
  • 1950年(昭和25年) 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表。
  • 1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。
  • 1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。
  • 1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。
  • 1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館 (戯曲)』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(~1958年ごろまで)。
  • 1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。
  • 1958年(昭和33年) 画家杉山寧の娘、瑤子と結婚。結婚に際しては、平岡家の祖先が被差別身分だったとの噂を聞きつけた杉山家から身元調査を受けた。本籍兵庫県印南郡志方町上富木から東京都目黒区緑ヶ丘に移す。剣道を始める。
  • 1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』発表。
  • 1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。
  • 1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
  • 1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。
  • 1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への公開状~「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
  • 1964年(昭和39年) 『絹と明察』発表。前年の事件に関連して文学座を退団した役者らが、「グループNLT」(劇団NLT)を結成。三島は顧問に就任する。
  • 1965年(昭和40年) 『サド侯爵夫人』発表。『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。主演・監督作品『憂国』撮影、翌年上映。ノーベル文学賞有力候補に。
  • 1966年(昭和41年) 『英霊の聲』発表。林房雄と対談し、『対話・日本人論』として出版される。
  • 1967年(昭和42年) 第二部『奔馬』連載開始。自衛隊に体験入隊する。F104戦闘機に試乗する。「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。空手を始める。
  • 1968年(昭和43年) 第三部『暁の寺』連載開始。「楯の会」結成。中村伸郎南美江村松英子らと「NLT」を退団し、劇団「浪曼劇場」を旗揚げ、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』などを上演。
  • 1969年(昭和44年) 『文化防衛論』発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。
  • 1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。

[編集] 三島事件

1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」であった。益田総監と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田兼利総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者もいた。

三島自身が自衛官と報道陣に向けて30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をしたが、自衛官たちからは総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さへの反撥が強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」「なに考えてんだバカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げる。そして森田必勝らと共に『天皇陛下万歳』を三唱したのち三島は総監室で割腹自殺した。
自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義日本国憲法の批判、そして安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。

日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は違憲の存在でしかないと見ていた三島は、自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞と断じていた。演説で、三島は自衛官らに、『諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ』と絶叫した。

自殺の原因には諸説が挙げられるが、その一つとして考えられるのが、自身の『老い』への恐怖である(実際、三島は「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と友人に語っている)。新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていた(小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』構想社、1980年、p.29-30)。もう一つの理由として挙げられるのは、英雄的な死に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に『年頭の迷い』と題して『読売新聞』に発表した文章の中で、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。又もう一つの理由として挙げられるのは、切腹という行為そのものに対する官能的なフェティシズムである。そのことは1960年榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』からも明瞭に看取される。
三島が死に急いでいたことは、檄文に元来『昭和四十四年十月二十一日』(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべきところを『昭和四十五年十月二十一日』と書いていることなどからも伺える。伊達宗克『裁判記録「三島由紀夫事件」』に収録された検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたという。 介錯は森田必勝および古賀浩靖。最初は森田が斬りつけたものの二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っていたことも報告されている。

なお古賀浩靖は服役後、谷口清超生長の家総裁の娘と結婚し、荒地浩靖の名で宗教活動を行っている。

[編集] 三島の自衛隊論

三島は、檄文で

自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった

と訴えた。そして、『政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう』と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動が行われなかったことに憤ったのである。

また、檄文では、

諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。・・・アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば・・・自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう

とも警告した。

なお、三島は、死の年の1月19日21日22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは―道理の実現」という文章を寄せている。そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが余すところなく書かれている。

この中で三島は、改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄いと指摘。そして、今の日本は統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問う。それに合わせて、現憲法下でという条件付であるが、

  1. 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
  2. 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、

という提案を行っている。なお、国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。

なお、『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀杖を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。

このように、三島が自衛隊に望んでいたことは

  1. 自衛隊の名誉回復
  2. 日米安保からの脱却と自主防衛

の2点に集約される。最後には死に急ぐあまり自衛隊を巻き込んでしまった三島であったが、彼が残したこれらの主張は現在に至るまで色あせてはいない。

[編集] 三島の天皇論

一方、三島の天皇への態度は複雑である。

三島は、最後の日の演説や檄文などでは『歴史と文化の伝統の中心』、『祭祀国家の長』として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては『文化概念としての天皇』という概念を主張し、天皇のあるべき姿を宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在だと主張した。ここには、政治的イデオロギーは微塵もない。

一方、それとは裏返しに、近代の皇室について三島は『天皇というものを現状肯定の象徴にはしたくない』(『対話・日本人論』)と発言し、戦後の象徴天皇制に否定的な見解を示した。

特に、昭和天皇に対してはある時『反感を抱いている』と三島は発言している。

三島に言わせれば、それは昭和天皇が

  1. 2・26事件の反乱将校らを厳重に処罰させたこと、
  2. いわゆる人間宣言により、『神としての天皇のために死んだ』特攻隊隊員らを裏切ったこと、

ことによるものである。

三島の、昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る『英霊の聲』で端的に表されている。三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の御霊に『などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし』と、ほとんど呪詛に近い言葉を言わせた。

[編集] 『宴のあと』裁判

三島は、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告でもある。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件では三島の友人・吉田健一(父親の吉田茂外務省時代の有田の同僚であった)が仲介に入ったものの上手くいかず、三島が吉田と絶交したといわれている。

[編集] その他

  • 兵庫県にある平岡家の墓には生涯一度も参らず作品の中には敢えて故郷をとりあげず無視したため一部からは批判の声もあり地元民の三島に対する評価は高いものでない。三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視しようとしたことには、差別問題が関係しているとする説もある。たとえば梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載『三島由紀夫の無視された家系』がそれである。この記事によると、平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、西神吉村だった。そして、志方村に移住したそもそもの理由は、太吉(三島の曾祖父)が領主から禁じられている鶴を射るという不祥事を起こし、非人階級に落とされた上で所払いにされたためだというのである。(「過去帳には名前のそばに"非人""非人の子""番人""水番"という汚名の肩書もついている」と、この記事の筆者は述べている。)その一方、村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社1990年)35ページによると、三島研究家越次倶子は平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳写真に撮影しており、さらに1964年ごろ平岡家の壬申戸籍の写しも入手しているが、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかったと主張する。その後、安藤武は真福寺の過去帳を実地に検証してこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままとなっている。
  • 関西弁、そして方言が大嫌いであり、方言を用いた戯曲を軽蔑した。中村光夫に宛てた1963年9月2日の書簡では「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西風は性に合はず、外国へ来たやうです」と語っている。このことに関しては、夫(平岡定太郎兵庫県出身)を忌み嫌っていた祖母夏子の影響も考えられている。
  • 三島自身は「受験に失敗したことがない」と偽っていたが、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。
  • ボディビルを始めるきっかけとして、胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた玉利斉(早大バーベルクラブ主将)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた。(このとき三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた仲代達矢がボディビルについて尋ねた時「本当に切腹するとき脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。また、友人中井英夫百科事典の編集に携わっていた頃、戯れに「ボディビルの項目には、見事に鍛え上げた肉体の見本として、三島さんの写真を使わせて欲しいと思っているんですよ」と発言したところ、その冗談を真に受けた三島から、後日「あの百科事典の件だけど、写真はいつ撮影するの」と催促を受け、慌ててカメラマンを手配したこともある。なお、最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。
  • 三島の同世代の男性は星新一遠藤周作など比較的長身であることが多いが、三島は身長163センチと、当時としても小柄だった。三島はこのことに劣等感を抱いており、公には身長を詐称することがあった。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173センチです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた。その新聞記者の身長が173センチだったのに、どう見ても三島のほうが小さかったからである。
  • 三島はもともと胃が弱く、お茶漬けを何よりの好物としていた。しかし30歳以降はボディビル剣道ボクシングなどで自己鍛錬を重ねて胃弱を克服し、それ以降は好んで脂っこい料理を食べるようになった。好物を問われると、胸を張って「ビフテキ」と答えた。
  • 三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、一人息子を将来東大に入れるためにはどうすればよいか思い悩み、知り合いの新聞記者に相談を持ちかけた一面もあった。
  • 三島が監督・脚本・主演全てを行い、後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年に発見されたという。
  • 三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにして問題をあいまいにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる原稿を書き、没にされたことがある。
  • 介錯に使われた自慢の名刀「関の孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。

忌日憂国忌と呼ばれ、偲ぶ集いが行われる。

[編集] 作品リスト

  • 花ざかりの森
  • 夜の仕度
  • 魔群の通過
  • 仮面の告白
  • 鏡子の家
  • 潮騒(新潮社文学賞)
  • 金閣寺(第8回読売文学賞小説賞)
  • 十日の菊(第13回読売文学賞戯曲賞)
  • 戯曲「サド侯爵夫人」(芸術祭演劇部門賞)
  • 豊饒の海
  • 文化防衛論
  • サド侯爵夫人
  • わが友ヒットラー
  • 葉隠入門
  • 不道徳教育講座
  • 美しい星
  • 複雑な彼
  • 午後の曳航
  • 三島由紀夫十代書簡集
  • 川端康成ー三島由紀夫往復書簡集
  • 私の遍歴時代
  • F104
  • 太陽と鉄
  • 対談集尚武のこころ
  • 東大全共闘対三島由紀夫
  • 英霊の聲
  • 戯曲近代能楽集
  • ラディゲの死
  • 憂国
  • 小説家の休暇
  • アポロの杯
  • 戯曲集熱帯樹
  • 禁色
  • 青の時代
  • 戯曲鹿鳴館

[編集] 映画

[編集] 原作

制作年 作品名 制作(配給) 監督名 主な出演者
1953年 夏子の冒険
(※カラー映画)
松竹大船 中村登 若原雅夫 角梨枝子 高橋貞二 桂木洋子
淡路恵子
1953年 にっぽん製 大映東京 島耕二 山本富士子 三田隆 上原謙
1954年 潮騒 東宝 谷口千吉 久保明 青山京子 三船敏郎
1957年 永すぎた春 大映東京 田中重雄 若尾文子 川口浩 船越英二 角梨枝子
1957年 美徳のよろめき 日活 中平康 月丘夢路 葉山良二 三國連太郎 宮城千賀子
1958年 炎上 大映京都 市川崑 市川雷蔵 新珠三千代 仲代達矢 中村玉緒 
1959年 燈台 東宝 鈴木英夫 河津清三郎 津島恵子
1961年 お嬢さん 大映東京 弓削太郎 若尾文子 田宮二郎 川口浩
1962年 黒蜥蜴 大映東京 井上梅次 京マチ子 大木実 叶順子 川口浩
1964年 大映京都 三隅研次 市川雷蔵 藤由紀子
1964年 潮騒 日活 森永健次郎 吉永小百合 浜田光夫
1964年 獣の戯れ 大映東京 富本壮吉 若尾文子 河津清三郎
1965年 肉体の学校 東宝 木下亮 岸田今日子 山崎努 山村聰 東恵美子
1966年 複雑な彼 大映東京 島耕二 田宮二郎 高毬子
1967年 愛の渇き 日活 蔵原惟繕 浅丘ルリ子 中村伸郎 山内明
1968年 黒蜥蜴 松竹 深作欣二 丸山明宏 木村功 川津祐介
1971年 潮騒 東宝 森谷司郎 朝比奈逸人 小野里みどり
1972年 音楽 行動社/ATG 増村保造 黒沢のり子 細川俊之
1975年 潮騒 東宝/
ホリ企画制作
西河克己 山口百恵 三浦友和
1976年 金閣寺 たかばやし
よういちプロ/
映像京都/ATG
高林陽一 篠田三郎 柴俊夫
1976年 午後の曳航 マーティン・ポール
=ルイス・ジョン・
カルリーノ・プロ/
日本ヘラルド映画
ルイス・ジョン
・カルリーノ
サラ・マイルズ クリス・クリストファーソン
1980年 幸福号出帆 悶文グループ/
三宝プロダクション
/東映セントラル
フィルム
斎藤耕一 藤真利子 倉越一郎
1983年 愛の処刑
(※榊山保名義)
ENKプロモーション 野上正義 御木平介 石神一
1985年 潮騒 ホリ企画/東宝 小谷承靖 堀ちえみ 鶴見辰吾
1986年 鹿鳴館 MARUGEN-
FILM/東宝
市川崑 浅丘ルリ子 菅原文太 三橋達也
2005年 春の雪 東宝 行定勲 妻夫木聡 竹内結子 若尾文子 真野響子

[編集] 出演

制作年 作品名 制作(配給) 監督名 三島の役柄 主な出演者 備考
1951年 純白の夜 松竹大船 大庭秀雄 特別出演 河津清三郎 木暮実千代 ※原作
1959年 不道徳教育講座 日活 西河克己 特別出演 大坂志郎 信欣三 ※原作
1960年 からっ風野郎 大映東京 増村保造 朝比奈武夫 若尾文子 船越英二
志村喬
※主演作品
1968年 黒蜥蝪 松竹大船 深作欣二 日本青年の生人形 丸山明宏美輪明宏
木村功
※劇化 劇曲
1969年 人斬り フジテレビ
/勝プロ
五社英雄 田中新兵衛 勝新太郎 仲代達矢
石原裕次郎
※出演

[編集] 監督

制作年 作品名 制作(配給) 三島の役柄 主な出演者 備考
1966年 憂国 東宝/ATG 武山信二中尉 鶴岡淑子 ※制作は1965年 製作・脚色・美術も

[編集] 音楽作品

  • からっ風野郎(同名の大映映画の主題歌)
キングレコード、1960年3月20日発売。
三島は作詞と歌唱を担当。作曲とギター演奏は深沢七郎
  • 大映映画「お嬢さん」主題歌
キングレコード、1961年1月31日発売。
三島は作詞を担当。歌唱は中原美沙緒。
  • 起て!紅の若き獅子たち
クラウンレコード、1970年4月29日発売。
三島は作詞を担当。作曲は越部信義。歌唱は三島と楯の会の会員たち。

[編集] 関連人物

  • 蓮田善明 ロマン派系の国文学者。元陸軍中尉。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時、駐屯地のマレー半島ジョホールバルで自決。
  • 清水文雄 ロマン派系の国文学者。
  • 保田與重郎 日本ロマン派の文芸評論家。
  • 伊東静雄 ロマン派の詩人。三島から尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を大変嫌っていた。
  • 川端康成 三島の師、あるいは先輩作家。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて太宰治谷崎潤一郎令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあるが、この件に関しては川端から全く相手にされなかった。三島はまた、楯の会に対する川端の冷淡さに失望していたとも伝えられる。
  • 黛敏郎 作曲家。金閣寺をオペラ化。のち、三島と組んで進めていた仕事の締切に間に合わなかったため、潔癖症の三島から絶交された。
  • 細川俊夫 作曲家。班女をオペラ化。
  • 美輪明宏 歌手、俳優。10代の時、アルバイト先のカフェに客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島に出会う。三島由紀夫の戯曲に多く出演する。「近代能楽集」「双頭の鷲」三島が脚本を手がけた「黒蜥蜴」は今でも定番であり、よく出演している。演出も手がける。
  • 佐々淳行
  • 石原慎太郎 作家。政治家。都知事。作家としての先進性を評価する。彼の作品「完全な遊戯」が文壇で全批判された際も、彼は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れていく。実際三島事件を「狂気の沙汰」と一言に切って棄てた。
  • 村上一郎 作家。批評家。右派的な作家であるが、戦争肯定論者ではない。独自視線の戦争批判が冴える。三島由紀夫と頻繁に会談し、尚武のこころに詳しい。
  • 中村伸郎 俳優。三島が劇団「文学座」を脱退した際、当時劇団の最高幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「NLT」「浪曼劇場」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。
  • 村松剛 作家。批評家。三島由紀夫論集を数多く出版する。
  • 村松英子
  • 奥野健男
  • 北杜夫 作家。年齢も近かったことから交友が始まり、三島は彼の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島とは疎遠だった。
  • 越路吹雪 独身時代に三島と恋愛関係にあった。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていた。
  • 湯浅あつ子 『鏡子の家』の鏡子のモデル。家族ぐるみで平岡家と交際があり、一時期、三島とは恋愛に近い関係にもあった。
  • ロイ・ジェームス トルコ人タレント。いわゆる「外タレ」の走り。湯浅あつ子の夫。
  • 増村保造 映画監督。東大法学部時代からの付き合いだったが、映画『からっ風野郎』を三島主演で監督するに際しては三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、平岡梓は「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人ロイ・ジェームスに向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる。
  • 中井英夫 
  • 林房雄
  • 芥川比呂志
  • 澁澤龍彦 仏文学者、作家。『サド侯爵夫人』は全面的に澁澤のサド研究に基づいている。のちに三島は『暁の寺』で、澁澤をモデルにして「性の千年王国」を夢見る独文学者今西康なる人物を描き出した。
  • 吉田健一 英文学者、作家。鉢の木会の同人仲間として三島と一時期親しかったが、のちに不和を生じて絶交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためともいわれるが、『宴のあと』刊行に際して、有田八郎と旧知の仲だった吉田が有田との話し合いを三島に求めたところ、三島が感情的に反撥したためという説もある。
  • 福田恒存 英文学者、戯曲家。鉢の木会の同人仲間として三島と一時期親しかったが、文学座の運営に関する福田の裏切りが原因で絶交に至った。
  • 福島次郎 
  • ドナルド・キーン アメリカの翻訳家。作家。三島由紀夫の英訳を多く手がける。また近年「三島由紀夫との往復書簡集」が出版された。
  • ジョン・ネイスン アメリカの日本文学者。三島作品を多数英訳し、三島がノーベル文学賞候補に挙がった際には、ノーベル賞委員会との仲介者として活躍。のち、三島の新作の英訳依頼を断って大江健三郎を訳し始めたため、三島とは絶交に至った。
  • 安部譲二 作家。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は小説『複雑な彼』を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部となった。
  • 天知茂 俳優。三島の意向で『黒蜥蜴』の明智小五郎役に抜擢され、これ以後明智小五郎役をレパートリーの一つに加えた。
  • 横尾忠則 画家。三島が最も高く買っていた画家の一人。楯の会の蜂起計画を何気なく言い当てて、三島を狼狽させたことがある。
  • 友清歓真 古神道家。『英霊の声』の執筆に、友清が著した『霊学筌蹄』を参考にしたほか、『文化防衛論』にも友清の「霊的国防」論が影響をあたえた。
  • ガブリエーレ・ダヌンツィオ イタリア作家
  • エルンスト・ユンガー 欧米の三島研究者が、しばしば三島と対比して名をあげる現代ドイツ作家
  • 正田美智子 独身時代に一度だけデートしたことがある。
  • 舩坂弘 元陸軍伍長の戦争作家であり、剣友。三島の自決の際に介錯に使った名刀・後代関孫六を三島に贈った人物。著書に、主として三島事件前後を描いた伝記『関ノ孫六 三島由紀夫その死の秘密』がある。
  • 坂本一亀 河出書房の編集者で『仮面の告白』を担当する。坂本龍一 の父。
  • トルーマン・カポーティ 代表作に「冷血」「ティファニーで朝食を」を持つ近代アメリカ作家。来日時に一度三島由紀夫に会っている。
  • ビョーク アイスランド生まれの国際的ミュージシャン。東洋的な風貌を周囲から指摘されたのがきっかけで三島由紀夫の作品を愛読している。
  • 浅田次郎 熱心な愛読者であったが、大学受験浪人中に三島の自決に衝撃を受け、自衛隊に入隊した。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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