佐々木定綱
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佐々木定綱(ささきさだつな、1142年(康治元年) - 1205年5月5日(元久2年4月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
近江の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の長男として生まれ、平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝に従い平家と戦った父の敗北により、共に関東へと落ち延び源頼朝に仕える。
治承4年(1180年)、伊豆で以仁王の令旨を受け平氏打倒を決意した頼朝に従い、8月17日、平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討つべくその邸宅へと赴き、弟の経高、高綱と共に信遠を討つ。20日、頼朝に従い相模国へと赴くも石橋山の戦いで敗れる。安房へ逃れ再び兵を集めた頼朝は10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に行われた挙兵後初の論功行賞で、定綱ら兄弟は旧領の佐々木庄を安堵される。
頼朝を大将とする軍は鎌倉に本拠を構え、その後多くの戦いを経て文治元年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼした。
その後、戦功を上げ続け、近江、長門、石見、隠岐の守護へと任ぜられる。1191年(建久2年)、水害で不足していた佐々木庄で年貢を巡り延暦寺との争いが生じる。延暦寺は配下を定綱の宅に乱入させ、これを次男の定重が刃傷してしまう。この騒動により定綱は薩摩国へと流されるが、建久4年(1193年)4月29日に許され、10月28日に鎌倉に帰ると頼朝は大いに歓び、定綱は近江守護に復する。11月27日、頼朝の永福寺への参拝に随い、12月20日には隠岐、長門、石見の守護へと復する。建久6年3月には東大寺供養の為上洛し南都に赴いた頼朝に随い、4月15日には石清水八幡宮への参拝に随う。
その後も、幕府の重鎮として活躍し検非違使左衛門少尉に任ぜられ、元久元年(1204年)4月13日には従五位下に除せられる。