全真教
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全真教(ぜんしんきょう)とは、中国の金の住人、王重陽(1112年 - 1169年)が開いた道教の新しい一派である。江南の正一教を南宗と呼ぶのに対して、別名では北宗ともいう。また、七真人と呼ばれる7人の開祖の高弟たちが教勢の拡大につとめ、次第に教団としての体制を整えていった。
七真人とは、馬丹陽、譚長真、劉長生、丘長春(1148年 - 1227年)、王玉陽、郝広寧、孫不二の7人である。
その教理の根本は、王重陽の作とされる『重陽立教十五論』の中に述べられているが、その中で説かれている内容は、もはや道教本来の不老長生を求めるのみではなく、仏教とりわけ禅宗の影響が色濃く見受けられる。なお、後代南宋の朱子(1130年 - 1200年)がうちたてた新しい儒教の朱子学からも影響を受けた。そのことは、王重陽が、盛んに「三教」を標榜したことに、容易に見て取れる。王重陽にとっての全真教とは、単に旧道教に対する新道教ではなく、その名のもとに、儒教・仏教をも含めた三教を摂取し融合しようとするものであった。
また、「全真清規」という、禅宗の叢林で発達した教団規律である「清規」を取り入れた規則も設けている。そこで重視されるのは、出家の立場であり、打坐(坐禅)である。また、不立文字の考えも取り入れられている。
全真教が金朝によって公認されたのは、開祖の王重陽の没後、1188年(大定28年)のことである。2月に、七真人の一人、丘長春が、世宗より法師号を授けられた。その後、度牒の給付や観額の官売も認められ次第に教勢を張るようになる。
しかし、西方にチンギス・ハンのモンゴルが次第に勢力を伸ばして来ると、丘長春は、高齢を押して、遠くインダス河畔まで西征途上のチンギス・ハンを訪れるための旅をしている(1220年 - 1224年)。その旅行記は、「長春真人西遊記」として、今日に伝えられている。その結果、元代になっても、全真教は、前代にも増して発展することができ、江南の茅山に本拠を置く正一教と勢力を二分するまでになった。
但し、開祖の王重陽や丘長春に代表される七真たちが樹立した新道教としての儒教・仏教との融合性や道教自体の革新性は、早くも元代には挫折しており、旧来の道教と変わらなくなっていた。例えば、王重陽が否定していた斎醮という道教儀礼は、七真人の代には復活していた。また、不立文字や打坐などの禅宗的な要素も、元初には見られなくなっていた。それに代わって、民間信仰が流入し、呪術的な神秘性が増していき、金丹道が流入するに至って、全く従来の道教と変わらなくなってしまった。
なお、北京で有名な道観である白雲観は、全真教の本山的な位置にある道観である。