正一教
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正一教(しょういつきょう)は道教の教団。現在の道教の教団は全真教(全眞敎)と正一教の二つに大別されて考えられている。北京を中心とする全真教を北宗と呼ぶのに対して、南宗とも呼ばれる。日本語読みの問題ではあるが、道教は儒教と共に中国で起こった宗教であるため、漢音読みをする習慣がある。例えば、「道教経典」も「どうきょうけいてん」と読む場合がある。同様に、正一教の読みに対しても、「せいいちきょう」または「せいいつきょう」と読む場合があるので、注意が必要である。
正一教は、後漢末の五斗米道(天師道)という宗教にさかのぼるといわれる。五斗米道は、張陵という人が現在の四川省で太上老君のお告げを受けて、天師の位と正一盟威(しょういつめいい)の道を授けられ、はじまったとされる。漢中に勢力を張っていた孫の張魯が曹操に降った後、その子孫は代々張天師の位を世襲し、遅くとも晩唐には龍虎山を本拠とするようになっていた。
北宋代には、第24代天師の張正随が真宗(眞宗)に召されて朝廷の庇護の下に入った。元代になると、第36代の張宗演が世祖に召され、任じられて江南道教を統轄するようになった。また、教団が正一教と呼ばれるようになったのも、この頃からである。
明の太祖朱元璋の作とされる「御製玄教齋醮儀文序(ぎょせいげんきょうさいしょうぎぶんじょ)」の中では、死者のための儀礼を主として行う教団と見なされている。
清朝に入ると、朝廷の祈祷や祭祀の行事は、チベット仏教のラマ僧に牛耳られるようになり、道教嫌いであった乾隆帝によって、遂に道教の管掌権を奪われるに至った。辛亥革命時には、龍虎山はさびれていたが、それに追い討ちをかけるように、1912年(民国元年)、江西都督の手で天師の封号までも奪われてしまった。第62代の張元旭が袁世凱らの軍閥に働きかけ、ようやく「正一真人」の封号および龍虎山の封地を奪回するのに成功した。
全真教の道士は修身養性の出家主義的だが、正一教の道士は祭儀中心の在家主義的といわれる。活動は呪符を重んじるなど、呪術性が強く、内丹学などの自己修養はあまり重視されないといわれる。