剛竜馬
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剛 竜馬(ごう りゅうま)のリングネームでの活躍で最も知られる八木 宏(やぎ ひろし、1956年3月23日 - )は、日本のプロレスラー。東京都新宿区出身。育ちは神戸。
[編集] 経歴
最初は日本プロレスで練習生をしていたが、1970年に国際プロレス新人選手公募に合格し、入門後1972年9月に群馬県藤岡市体育館の米村勉戦でデビュー。1973年に海外武者修行のためカナダに渡り、1976年帰国。
1978年、国際プロレスを脱退してまで、当時ジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに参戦。新日ジュニア戦線に参入する意気込みを「Do my Best!」と言葉にしている。しかし、藤波辰巳の保持するWWWFタイトルに挑戦するも敗戦。1979年10月、再び藤波に挑戦して「逆さ押さえ込み」でタイトル奪取するも2日天下でリマッチに敗れる。
以後は新日本の前座戦線にてレスラー生活を送っていたが、1984年にUWF旗揚げに参加するも数ヶ月で退団(理由は路線を巡る対立とも外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブルとも言われており、真相は不明)。同年末に全日本プロレスに参戦し、ラッシャー木村、鶴見五郎らと国際血盟軍を結成、全日本マットで暴れた。しかし全日本プロレスにおける日本人選手が飽和状態となり、1986年3月をもって整理解雇される。
その後、全日本の1987年・サマーアクションシリーズに1シリーズだけ復活参戦し、アジアタッグ争奪リーグ戦に鶴見五郎とのコンビで参戦するも、三つ巴の最下位(ピンフォールをとられたのはすべて剛)に終わり、最終戦の7月30日、東村山スポーツセンター大会の対谷津嘉章、仲野信市組との対戦(パートナーはラッシャー木村)を最後に全日本マットから再びフェードアウトした。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体を去ることとなった。
1989年4月、パイオニア戦志を旗揚げするも、1990年12月に消滅。その後SWS入りの動きがあるもSWS選手会から猛反対を喰らい消滅。仕方なく自力で団体を作るしかなかったため、再びオリエンタルプロレスを旗揚げした。しかし旗揚げ約4ヶ月後の1992年12月の千葉県・船橋大会を最後に「ある件」で若手の総スカンを喰い同団体を退陣。
その後『リングの魂』(テレビ朝日)に出演したのを機にプロレスバカなるニックネームを付けられ、一部プロレスファンの間で人気が高まる。「ショア!」のアピールも受け、週刊プロレスが主催した東京ドーム興行に参戦した際には、数万人の観客席から「ショア!」の掛け声が鳴り響いた。その後追い風に乗りフリーで復活して剛軍団を旗揚げ。その後スポンサーを得て冴夢来プロジェクトに発展させる。妻と二人の子供とともにポスター貼りをする姿が専門誌に掲載されるなど、地道な活動を目指したが、人気がジリ貧になり消滅。2000年には鶴見五郎の主催で引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛本人が会場入りを拒否するという前代未聞の引退セレモニーとなった。
前述の引退セレモニー後、マット界からフェードアウトした2001年、ゲイビデオ『格闘家~燃える肉弾~』に出演した。また同年中に『極太親父』『でかんしょ旋風児』『野郎四人衆』『侍、一本』などのホモビデオにも出演した。この件に関して、本人は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」と説明し事実を認めている。またこの騒動の際「俺は極太なんかじゃない、極小親父だ」という迷言も残している。
2003年1月、JR新宿駅の自動券売機前にて老女(69歳)の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ、188日間の拘置所生活を送る。本人は取り調べ中に自らが一面を飾った新聞・東京スポーツを見せられ激怒したが、何を言っても「俺はヤッテいない!」の一点張りだった。また、身近な人には「もうプロレスはやらないんですか?」と聞かれ「俺は引退などしていない、3月に新日本に上がる」などと吹聴していたことも発覚した。また専門誌記者やファンから寸借詐欺同然に金を借りていたり、離婚して苦楽をともにした家族と別れていたことも判明し、悲哀に満ちた転落劇となってしまった。
釈放後の2004年、瀬戸元代表の協力を得てレッスルエイド・プロジェクトを旗揚げするも、代表の体調悪化などにより消滅。以降は正式な発表こそなかったものの、事実上引退したと思われていたが、2006年7月、DDTにて復帰戦が行われた。しかし身体の衰えは隠せず、マスコミにもほとんど取り上げられなかった。
[編集] 得意技
- ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ
- リバース・スープレックス