週刊プロレス
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週刊プロレス(しゅうかんプロレス)は、ベースボール・マガジン社が発行する週刊のプロレス専門雑誌。一般に「週プロ」と呼ばれる。
1955年8月にベースボールマガジンの増刊号「増刊プロレス」として創刊。以降、月刊誌「ベースボールマガジン・プロレス」として発行、1957年1月からは「月刊プロレス&ボクシング」と名を変えた。その後「月刊プロレス」を経て、1983年7月に週刊化(週刊化創刊号の表紙モデルは初代タイガーマスク)。プロレス専門雑誌の中では一番の老舗。週刊の初代編集長は杉山頴男(現・出版プロデューサー)。マーク層を対象にした専門誌の代表格。
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[編集] 概要
この雑誌の特徴は、良くも悪くも2代目編集長、ターザン山本の時代に形作られたと言ってよい。
プロレスマスコミ全般に共通するが、同誌は特定の団体・人物と癒着する傾向が強く、誌面は繋がりのある団体・選手の全面的な賞賛記事で占められている。これは、プロレスは純粋な競技ではなく芸能産業であることに起因する。雑誌にとってはプロレスの人気増が販売部数に直結するため、批判的あるいは否定的な記事を載せることは少ない。試合が膠着し観客から不満が上がった試合であっても、「老獪な試合運びで膠着状態にもつれ込ませた」「観客が付いていけなかった」の様に、レスラーや団体を咎める表現は避ける。
また主な広告主がプロレス団体やビデオ・DVDのソフト販売会社、プロレスショップなど同じ業界であることも理由のひとつである。プロレス団体にとっての専門誌の位置付けは外部の広報機関であり、アングルの周知化や試合の告知が出来れば良いだけであり、ジャーナリズムは競技では無いプロレスには必ずしも必要なものではない。試合レポートとされていても、記者個人の思い入れを反映したエッセイやコラム的な内容になることも多い。
そのため同誌との関係が良好でない場合、誌面での取扱量は低下する。まれに取り上げられる場合もあるが、単体ではなく他団体との比較対象として取り上げられる。かつて新日本プロレスを一方的に持ち上げ、全日本プロレスへの非難を繰り返す時期があった。全日本プロレス&ジャパンプロレスによる取材拒否を経て、当時の編集長・山本と全日本プロレス社長ジャイアント馬場の関係が改善すると、全日本プロレスの全面的な賞賛に転じた。
以後「旗揚げ前に自分(山本)への挨拶がなかった」という理由で新興団体のSWSへの批判記事を掲載し続け、取材拒否を受ける。この行為に義憤を覚えた漫画家のいしかわじゅんから「卑怯者の君たちへ」と批判を受けると、同誌面での論争となったが、山本編集長は「いしかわじゅんの文章など本誌に掲載する価値がない」と論理的回答を示さず、一方的に論争を終結(ただし、「何故本誌の記者に手を出したのか?」という山本の問いにまったくと言っていいほど答えなかったいしかわの態度にも問題はある)。同誌の暴走を危惧した新日本プロレス、WARなどの団体による取材拒否で(当初はリングスも取材拒否に加わる予定だったが、取りやめている。だが前田日明が当時の週プロの記者を名指しで批判するなど、決して良い関係では無かった。)、山本は退社に追い込まれる。
新日本プロレスから取材拒否されていた為、新日の東京ドーム興行を扱った増刊号を発行した際、取材に行く事が出来ない為、苦肉の策として、ターザン山本を除く記者全員で一般の客としてチケットを買い、試合の写真を一切使わない(写真は東京ドームを見上げる山本の写真1枚のみ)、文章だけの増刊号を発行している。
山本のあとを継いで浜辺良典が編集長になると、次第に山本色は払拭され、記事のあくの強さは抜けていった。この時代においては、浜辺自らの筆による、かつて浜辺が演劇に打ち込んでいた時代と長州力の全盛時を重ね合わせた私小説的なコラムが異彩を放っていた。
だが、山本退社後も現顧問の宍倉清則、フリーランスのライター安田拡了などによる、特定の団体を過剰に推す記事が見られる。彼らの担当する項目には、新日本プロレスやパンクラスの提灯記事と引き換えに、リングス、ハッスルといった団体への中傷記事が誌面に載ることが多い。
編集長は浜辺、佐藤正行、本多誠を経て、2006年11月から長久保由治。雑誌全体としては比較的プロレスリング・ノアとの結びつきがあるものと思われるが、週刊ゴングなどの他誌に比べ中立的な編集を行っている(かつてのような、一団体への徹底した提灯、もしくは中傷などは、安田拡了らのコーナー以外では殆ど見られない)。だがインターネットの普及などから、全盛期に比べ販売部数は減少している。
[編集] 週刊ゴングとの因縁
ライバル誌の「週刊ゴング」(日本スポーツ出版社。以下、「週ゴン」および「ゴング」)と紙面で舌戦を繰り返したことがある。特に1996年の新日本取材拒否の頃には「ゴングの記事など小学生にも書ける」という一般読者からの投稿をそのまま掲載したり(インターネット上の議論では、そもそもそのような投稿が本当にあったのかと話題にされた)、週ゴンが取材を行わないで記事を書いているかのように匂わせるコラムが掲載されて、週ゴン側の厳しい反論を呼ぶこととなった。また同時期には、長州力の週プロに対する批判意見を週ゴンがそのまま掲載した事(週プロ側曰く「ゴングは選手に喋らせた事をそのまま掲載するだけで、掲載後の言葉の責任をとらない。自分達の手は決して汚そうとしない」)に端を発し、両誌面で激しいやりとりが行われた。ちなみに当時新日本プロレスでファイナルマッチを行なった馳浩が、近い将来全日本プロレス移籍の意思がある事を初めて記事にしたのは週プロ(当時の佐藤正行記者、現在は週刊ベースボールに異動)であるが、10年経った今でも週ゴンは「このスクープはゴングが初めて記事にした」と譲らない。
[編集] 夢の懸け橋
1995年4月2日、ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦『夢の懸け橋』が東京ドームで行なわれた。メジャー・インディ・UWF系・女子プロレスから全13団体の参加があったが、「各団体の純潔メンバーでのカードを提供する」といったコンセプトのもと、各団体間の交流戦は一切行なわれなかった。しかし全13団体の選手が一堂に会す豪華さと、当時他団体と交流を断っていた全日本プロレスが、他団体と同じ興行に参加するといったプレミア性が重なり、会場には6万人の観衆が詰めかけた。試合の他には大木金太郎の引退セレモニーも行なわれた。これだけの豪華イベントであった当興行であったが、他マスコミからの非難が激しく、ベースボール・マガジン社以外のマスコミでは週刊ファイトしか記事にせず、他マスコミから興行の存在を黙殺されてしまった。その為現在では当興行は幻の興行とイメージ付けされ、週刊プロレス側もそれを認めている。なお、WARは週刊プロレスからの出場要請以前から、同日同時刻に後楽園ホールでの興行を行なう事が決定していた為出場を拒否。興行を決行し、こちらも超満員の観客を集めた。
[編集] 関連項目
- 有田哲平 - 毎週週刊プロレスを購読していることで知られる。惰性で買い続けていると公言。
- 竹内宏介 - 対抗雑誌「週刊ゴング」の編集長、日本スポーツ出版社社長というイメージが強いが、日本スポーツ移籍前は「月刊プロレス&ボクシング」の編集長を務めた。
- いしかわじゅん
- 市瀬英俊 - 元記者。週刊ベースボールを経てフリーのスポーツライターに。