南海龍太郎
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南海龍 太郎(なんかいりゅう たろう、1965年(昭和40年)2月22日 - )は、ドラゴンボンバーズ所属の元プロレスラー、高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は幕内で前頭2枚目。サモア生まれ。本名はキリフィ・サパ。
[編集] 来歴
19歳の時に力士が公募されているのを見て応募し300名近くいた候補の中からスカウトされて高砂部屋に入門、1984年(昭和59年)9月に初土俵を踏んだ。1987年(昭和62年)5月に十両に昇進し史上初のサモア出身関取、11月には新入幕を果たし史上初のサモア出身幕内力士となった。足の運びがよく力も強いので大いに期待された。横綱千代の富士も自分とどう体格で相撲のスタイルも似ている南海龍をかなり意識しており、取り組みは手抜きをせず、全力を出していた。
大酒飲みで知られ泥酔して何度か事件も起こし1988年(昭和63年)9月には酒の飲み過ぎで休場する失態もあった。ある日師匠の髙砂親方(元横綱朝潮)に「酒と相撲とどっちをとるんだ」と言われて酒と答えてしまい帰国、これを無視するわけにはいかず一門での話し合いを行なった上で当時の二子山理事長(元横綱若乃花)にも相談した結果番付にはそのまま記載するが戻って来ても出場させないことが決定、11月場所の番付に名前を残して廃業届が受理された。結局戻って来ることはなかった。まもなく髙砂親方は急死した。南海龍の問題でストレスが溜まり、脳溢血で死亡したとみられている。
1990年、新日本プロレスの藤波辰爾が結成したドラゴン・ボンバーズに参加するが、ここでも飲酒で問題を起こし、大成することなく帰国した。 小錦は南海龍に対して特に期待していたらしく熱心に面倒を見た。またサモア語が話せるので通訳も行なっていた。後に「あの時相撲と答えていれば今はまわしの上に綱を締めて土俵に上がっていたはずだよ。」と言っている。
カテゴリ: サモア | 元大相撲力士のプロレスラー | 1965年生 | 外国出身力士