南部麒次郎
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南部麒次郎(なんぶきじろう, 1869年 - 1949年)は、日本の有名な銃技師。主に明治時代の末期から大正、昭和にかけて日本陸軍の銃器の開発面で活躍し、「日本のブローニング」と言われた技術将校である。 写真:南部麒次郎
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[編集] 南部麒次郎の登場
1869年(明治2年)に肥前鍋島藩の士族の家に生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後に陸軍の士官学校に合格し砲兵科に配属される。その頃から麒次郎は武器・兵器の研究を行い、後に軍部からは技術者と認められ、1897年(明治30年)28歳の時に東京砲兵工廠製造所に配属、当時所長であった有坂成章の部下となり三十年式歩兵銃の開発には有坂とともに研究を行っている。
その後、東京砲兵工廠製造所の所長となった麒次郎は、このときそれまで陸軍で使用されていた二十六年式拳銃の後継銃の開発計画が上がっていた煽りもうけ、1902年(明治35年)に南部大型自動拳銃を完成させた。その後、1907年(明治40年)に大型と小型の二種類の予備試験から採用試験まで実施し優秀な性能をみせたが、この時陸軍大臣であった寺内正毅は複雑すぎる構造と高い製造コストから不適切と判断し、本銃の採用を見送った。南部大型自動拳銃はその後に海軍陸戦隊に採用され、小型は「恩賜の拳銃」や民間用に市販された。
[編集] 十四年式自動拳銃の開発
南部大型自動拳銃の採用が頓挫した後、陸軍内では新型拳銃の開発は延々と進むことは無かった。世界各国では次々に自動式拳銃を開発する中、麒次郎はこのとき海外に渡り各国が開発する新型拳銃を見て回り、研究を始めていた。そして外国の優れたオートマーチック式の拳銃に感嘆し、帰国した後の1922年(大正11年)から新たにオートマーチック式を取り入れた新型拳銃の開発を進めた。 関東大震災でそれまで試作していた銃や図面が燃えるなどの事故も会ったが数回の設計変更や試作を行った結果、1924年(大正13年)に南部十四年式自動拳銃は完成した。翌年には陸軍から一四年式拳銃として仮制式採用となり、この拳銃は砲兵や騎兵の将校の主武装として採用された。生産は中央工業のほかに名古屋造兵廠、東京造兵廠、小倉造兵廠で行われ、外形の変更などの小改良や生産工程の簡略化などを行いつつ終戦まで生産され陸軍の主力拳銃として使用された。
[編集] 南部銃製造所の設立
1922年(大正11年)同工廠提理となった後に陸軍中将に昇進。1923年(大正12年)には火工廠長、同工廠の科学研究所所長となっている。その後、陸軍を退役し、東京砲兵工廠製造所から退いた南部麒次郎は大倉財閥から資本金を集め、軍退役後の1925年(大正14年)に大倉財閥系の企業として南部銃製造所を設立した。数学が得意なことから自らも工場経営に能力を発揮し、独自に開発した武器を海外輸出を行ったりしている。この製造所はのちの1936年(昭和11年)には別の銃器製造所である銃関係製造業系の「昭和製作所」、同じ大倉財閥系であった「大成工業」の二社と合併を行い、社名も「中央工業」となった。
会社の設立後、陸軍からは十四年式拳銃よりも小型な拳銃を要望する声が多くなり、後に十四年式拳銃と同じ実包を使用した九四式拳銃を開発し陸軍に採用されている。中央工業はその後も拳銃に限らず、機関銃や自動小銃などの研究開発を行い、三八式小銃や九九式軽機関銃等の製造にも携わっている。
[編集] その後
その後も南部麒次郎は時代の流れを捉えるように拳銃の他にも機関銃などの研究も行い、1931年(昭和6年)には当時のサブマシンガンにあたる機関短銃を開発、1934年(昭和9年)には数回の改修を得た後に2種類の機関短銃を製作、後に一〇〇式機関短銃の開発し、太平洋戦争の後期に採用されている。 終戦後、中央工業は一切の武器の製造を禁止され、会社も閉鎖状態に追い込まれるが1946年(昭和21年)1月よりGHQにより警察官や警察予備隊に限り拳銃を使用を許可したため、1952年(昭和27年)に中央工業は「新中央工業(株)」として復活し、主に保安隊(後の自衛隊)や軍用機の機関銃・機銃の整備等を主な業務として復活する。
南部麒次郎、1949年(昭和24年)5月に80歳にて死去。 生涯を銃器開発に捧げ、盛んに射撃音に晒されたため、晩年ほとんど聴力を失っていたという。その後の1953年(昭和28年)麒次郎自身が戦時中に書いていたとされる自伝が刊行されている。