原子力事故
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原子力事故(げんしりょくじこ)とは、原子力関連施設の事故のこと。特に、核燃料・計測・医療のために使う放射性物質が漏れ出すと、大気や土壌、水が汚染され、環境、人体ともに多大な被害をもたらす。
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[編集] 国際原子力事象評価尺度(INES)
原子力発電所の事故・故障の事象報告の標準化を行うため、IAEAとOECD/NEAが策定した尺度。 1990年より試験的運用。1992年に各国の正式採用を勧告。同年に日本でも採用。
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- シーベルト(Sv):放射線が人体に与える影響を表す単位(ミリは1000分の1)
- ベクレル(Bq):放射性物質の量を表す単位(テラは1012=1兆)
- 深層防護の劣化の基準:安全上重要な設備の損傷の度合い
上表は、文部科学省(科学技術・学術政策局原子力安全課)の公文書1 、en:International_Nuclear_Event_Scaleより引用。
[編集] 主な原子力事故
[編集] 海外
- 1957年9月29日 ウラル核惨事 ソ連ウラル地方カスリ市の北100kmにあるクイツシム町にある「チェリヤビンスク65」という施設で起こった事故。200万キューリーの放射能を持つ放射性物質が飛散した。放射性物質の大量貯蔵に伴う事故の危険性を知らせた事故。
- 1957年10月10日 ウィンズケール火災事故 世界初の原子炉重大事故。英国北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド核燃料再処理プラント)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け多量の放射性物質を外部に放出した。避難命令が出なかったため、地元住民は一生許容線量の10倍の放射線を受け、数十人がその後白血病で死亡した。現在の所白血病発生率は全国平均の3倍である。当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。なお、現在でも危険な状態にある。ヨード131 2万キュリーが工場周辺500平方キロを汚染し、ヨードの危険性を知らせたことで有名である。また水蒸気爆発のおそれから注水に手間取った。これはスリーマイル島でも繰り返される。
- 1979年3月28日 スリーマイル島原子力発電所事故:アメリカ・スリーマイル島原発の炉心溶融事故。レベル5の事故であり、不完全な設備保全,人間工学を重視していない制御盤配置,そして中央制御室運転員の誤判断等が重なって発生した。当初は外部へ放射性物質が大量に放出されたとの報道もあった。この事故の影響により、アメリカ政府は新規原発建設中止に追い込まれた。アメリカではこの事故を契機にトラブルや運転等の情報を共有する組織としてINPOが結成され,その後の原子力発電所の安全性向上に寄与することとなった。
- 1986年4月26日 チェルノブイリ原子力発電所事故:ウクライナ共和国チェルノブイリ原発4号機が火災を起こし、多量の核廃棄物が大気中に放出されたレベル7の深刻重大な事件。無許可での発電実験中、安全装置を切り制御棒をほとんど引き抜いたために出力が急上昇して起こった。核廃棄物は気流に乗って世界規模で被ばくを齎した。直接の死亡者は作業員・救助隊員の数十名だけであるが、がんなどの疾病を含めると、数万から数十万にのぼるとされていた。しかし2005年に発表されたWHO等の複数組織による国際共同調査結果では、この事故による直接的な死者は最終的に9000人との評価もある。この事故を契機に国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、WANOが結成された。
[編集] 旧ソ連原子力潜水艦
(級の名前はNATOが命名。本当の名前は最高機密事項のなので、旧ソ連海軍もNATO名を使用)
- 1961年7月 ホテル級「K-19」(ソ連海軍初の原潜) 一次冷却回路の圧力低下。10名死亡(2002年ハリソン・フォード主演・総指揮で映画化。艦番号249、艦長ボストリコフ大佐。直接死亡7名、間接死亡20名。原因は一次冷却回路の蒸気漏れ)。
- 1968年3月 ハワイ沖で「ゴルフII級」沈没。核ミサイル3発搭載(ハワード・ヒューズの会社所有に偽装したCIAのグローマー・エキスプローラー号が先頭部を回収)。
- 1968年5月 ノヴェンバー級実験艦 液体金属冷却剤の硬化。9名死亡。燃料の20%損傷(この艦は前年の処女航海時にも凝固を経験)。
- 1979年7月 太平洋艦隊で冷却水漏れ(2005年現在ズベズダ造船所で解体中)。
- 1981年8月 沖縄沖で「エコーI級」火災。9人以上が死亡(反乱との噂もある)。
- 1985年8月10日正午頃 エコーII級 ウラジオストック近郊チャジマ湾の船舶修理工場で燃料棒交換中に、原子炉の誤操作で炉心の核反応が高まり原子炉が爆発。10人即死。290人被爆。500万キュリーの放射能を持つ放射性物質、200万キュリーの放射能を持つ放射性希ガスが流出し、北西30kmに渡り拡散(ウラジオストック南東50kmのパブロフスク湾海軍基地に係留中)。(日本では検出できなかった)
- 1985年12月 ウラジオストック近郊で冷却水漏れとメルトダウン。
- 1986年夏 エコーII級 一次冷却回路に別の元素が混入。
- 1986年夏 ヴィクター級 メルトダウンか?
- 1986年10月 バーミューダ沖で「ヤンキー級」K-219 米国沖で火災で沈没。核ミサイル搭載。「敵対水域」(イゴール・クルジン副長著、文藝春秋、1988)
- 1989年4月 ノルウェー沖で「マイク級」火災で沈没。40数人が死亡。
- 1993年3月 バレンツ海で「デルタIII級」が米原潜と衝突。
- 1993年? 燃料棒交換の際に使用済み燃料を入れてしまったため被曝者数名。
- 2000年8月 バレンツ海で「オスカーII級」の「クルスク」が沈没。118人全員死亡。
- 2003年8月 バレンツ海でクラス不明退役艦が沈没。9人死亡。
なお、旧ソ連原潜は、ミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカ、グラスノスチでそれらの情報の公開を軍組織に迫ったことや、潜水艦自体ほとんどが退役か、書類上は現役であってもほとんど稼動できない状態にあるため、こうした情報が外部に出ている。アメリカ合衆国をはじめとする他の国家での原潜事故は、各国がその動き自体を第一級の軍事機密としているために、ほとんど明るみにでていない。 米海軍の名誉のために付記すると、原子力潜水艦の父ハイマン・G・リコバー大将(海軍省原子力局長であり、原子力委員会海軍局長でもある2重権力)が原子炉の安全性を至上の命題として、徹底的に追求したために、米海軍の原子力事故はほとんど無かったと言える。 (指揮能力不足ではなく、原子炉安全試験不合格が艦長や機関長交代の理由になっていたそうだ)(リコ-バー大将の面接は人格破壊を伴う厳しい面接だという)
[編集] 日本
- 1974年9月1日 原子力船むつ 放射線もれ事故
- 1999年9月30日 東海村JCO核燃料加工施設臨界事故:日本で初めて起こった臨界事故。レベル4。
- 2004年8月9日 関西電力美浜発電所3号機2次系配管破損事故:2次冷却系からの蒸気漏れ事故で作業員が死亡。レベル0+