和知直頼
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和知 直頼(わち なおより、生年不詳 - 永禄5年(1562年)頃?)は戦国時代、陸奥国の白河結城氏に仕えた武将。家系は藤原氏の流れを汲む白河氏の支流。受領名は右馬助。父は和知常頼(または和知秀頼)か。
和知氏は代々重臣の家柄である。文書を発給する等の政務を担当した。和知氏には二流あり、十郎、美濃守を名乗る系統と右馬助、周防守を名乗る家系であり、直頼は後者の系譜を引く。通字は「頼」とされている。結城義顕を白河城から追放し、小峰義親の入城を手引きした和知美濃守は前者の系統を引くという。
1535年(天文4年)には、白河氏10代結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給している。この文書の付箋に「白河宿老」と記載されており、上級家臣であることがうかがえる。
1544年(天文13年)、義綱が鹿王山最勝寺に銅鐘を奉納した際は、直頼は奉行を務めており、銘文に名が刻まれている。