土佐一条氏
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土佐一条氏(とさいちじょうし)は、摂家のひとつ一条家の一族で、戦国時代に土佐国に土着した家。いわゆる戦国三国司のひとつに数えられる。
[編集] 概要
土佐の一条氏は、1475年に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市)に下向したのに始まる。教房の次男一条房家は京都に戻らず幡多荘の在地領主になって、中村御所を拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。房家の時代に土佐一条氏は公家としての権威をもったまま土佐に勢力をもつ大名として存在感を高めた。また、房家の次男・一条房通は京都の一条宗家の婿養子となって関白に昇進している。
しかし、房家の死後は早世する当主が続く。1549年に7歳で家を継いだ房家の曾孫一条兼定は、治世の当初を除いて遊興にふけったため信望を失ったと言われる。このため、土佐土着の国人で周囲の国人を滅ぼして勢力を拡大した新興勢力長宗我部氏が幡多に侵攻してきたとき一条氏の家臣は先を争って長宗我部元親の軍門に降り、兼定は豊後国に追放された。
これについては、豊後の戦国大名・大友氏らと組んで伊予に侵攻を繰り返すという、戦国大名化した土佐一条氏の評判が、摂関家である京一条家の権威を失墜させることに繋がったため、京一条家の当主一条内基がこれをよしとせず、介入したという説もある。 1575年、兼定は婚戚大友宗麟の支援のもとに土佐に復権をはかって攻め込んだが、四万十川の戦いで長宗我部軍に敗れて所領を失った。のち兼定は伊予国宇和島の戸島に隠棲した。
一方、兼定の隠居後に家督となったのは兼定の子一条内政である。内政は一条内基により左近衛中将に任官され、これによって土佐一条家は再び昔日の権威を取り戻し、一条内政は住所より「大津御所」といわれた。しかし、領地の中村から切り離された上、長宗我部元親の婿にさせられ、実体は「長宗我部家の傀儡」となったことから内実が伴わず、後に、長宗我部家の家臣・波川玄蕃の謀叛に加担したという疑惑がかかり、追放されてしまう。土佐一条家は久礼田御所一条政親が家督を継ぐ。戸次川合戦の後に摂津守に叙任するが、長宗我部家滅亡後は、京都或いは大和方面に去ったという。その後の消息は不明となる。