垣屋光成
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垣屋 光成(かきや みつなり、永正17年(1520年) - 文禄元年(1592年))は山名氏の家臣。垣屋続成の子。
山名祐豊の有力な重臣で、父の続成とともに強力な権勢を誇っていたという。1570年、父の続成は田結庄是義に殺されてしまったが、光成は敵討ちに立ち上がって1575年に是義を殺害している。
その後は山名氏を織田信長の側に与させて、1572年には尼子勝久と協力して毛利方の武田高信を攻める。1575年、主君の祐豊が織田を裏切って毛利氏と和睦すると、祐豊を見限って信長に与する。そして1580年、信長の命を受けた羽柴秀吉の侵攻にいちはやく降伏して、吉川経家が籠もる鳥取城攻めで活躍し、その戦功により因幡に一万石を与えられた。