山名氏
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山名氏(やまなうじ)は、山陰を中心に勢力を持った守護大名、戦国大名である。
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[編集] 山名氏の起源
山名氏は清和源氏の流れを汲む名門の新田氏の一族とされ、新田義重の庶子の三郎義範(または太郎とも)が上野国山名郷(群馬県高崎市山名町)を起源とすることから、山名氏と称した。鎌倉時代に、早くも源頼朝に従って御家人となった(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれる)。
[編集] 室町時代前期の山名氏
南北朝時代には新田氏一族は新田義貞を中心に南朝に参加したが、山名時氏は縁戚であった足利尊氏に従い、山陰地方の守護大名として封じられるとともに、赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで選ばれている。観応の擾乱では南朝側に付いて足利直冬に従ったが、足利義詮時代に室町幕府に従う。
室町時代には時氏の子・山名氏清のときに全国66ヶ国中11ヶ国の守護職を兼任したため、”六分の一殿”と称された。しかしその強大な勢力を時の将軍・足利義満から危険視されるようになり、1391年、氏清は義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに明徳の乱で挙兵し、同年12月に京都に攻め入ったが、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死し、戦後の処罰によりその所領を大幅に削られてしまうことになった。これにより、山名氏はその勢威を大きく衰退させてしまったのである。
[編集] 室町時代後期の山名氏
1441年、嘉吉の乱により時の将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺されてしまった。同年、幕府は時の山名氏の当主であった山名宗全(持豊)を総大将とした赤松氏の討伐軍を送っている。このとき、宗全は赤松氏討伐で大功を挙げて、明徳の乱以来、衰えていた山名氏の勢力を大きく回復したのである。
その後、宗全は幕府の主導権をめぐって管領の細川勝元と対立し、これに足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なって、1467年には応仁の乱が起こってしまう。このとき、宗全は西軍の総大将として東軍の細川勝元と戦ったが、この応仁の乱の最中の1473年に宗全は病死してしまった。そして山名氏は宗全の死と応仁の乱に深く関わったことによって、またもや大きく衰退してしまう。
[編集] 戦国時代の山名氏
山名宗全の死後、大きく衰えた山名氏は戦国時代に入ると、但馬と因幡の守護職をかろうじて維持するまでに落ちぶれてしまった。しかも、但馬守護の総領家と因幡守護の総領家に一族が分裂したうえ、対外からは出雲の尼子氏の侵攻を受けるようになり、これによって山名氏はさらに衰退することとなる。
1581年、山名豊国は織田信長の命を受けた中国方面総司令官・羽柴秀吉に居城の鳥取城を攻められて降伏し、秀吉の家臣となった。その後、豊国は秀吉から因幡にわずかの所領を与えられ、御伽衆として迎えられた。
[編集] その後の山名氏
1600年の関ヶ原の戦いで、豊国は徳川家康に従った。そのため1601年、家康から但馬国内に6700石の所領を与えられ、交代寄合として明治時代を迎えた。1868年、1万1000石への高直しを明治政府に認められ新たに村岡藩を立藩した。1884年、男爵を叙爵。
[編集] 当主
[編集] 系図
┃ 新田義重 ┃ 山名義範 ┃ 義節 ┃ 重国 ┃ 重村 ┃ 義長 ┃ 義俊 ┃ 政氏 ┃ 時氏 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ 時義 氏清 氏冬 義理 師義 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━┓ 時熙 時清 氏家 義清 氏幸 満幸 ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ 宗全 煕高 煕貴 教清 煕幸 細川勝元 ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ │ 教豊 勝豊 是豊 政豊 時豊 豊久 勝豊 政清 教幸 豊久 ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ 政豊 豊保 頼忠 豊頼 豊幸 ┣━━━━━━━┓ ┃ 致豊 誠豊 誠通 ┣━━━┓ │ 豊定 祐豊 祐豊 ┣━━━┓ ┣━━━┓ 豊国 豊数 棟豊 堯熙 ┣━━━┓ 豊秋 豊義
[編集] 主要家臣団
[編集] 全国山名氏一族会
山名氏の子孫・関係者の方々が集う会である。