壬午事変
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壬午事変(じんごじへん)とは、1882年7月23日に、大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。
壬午軍乱(じんごぐんらん)、朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、あるいは単に朝鮮事変(ちょうせんじへん)とも呼ぶ。以下に示す理由から大院君の乱と言うものもある。[1]
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[編集] 事件の発端
江華島事件以来、当時の朝鮮は、朝鮮は清朝の冊封国(または属邦[2] )としての朝鮮のままであるべきであるという「守旧派」(事大党ともいう)と、現状を憂い朝鮮の近代化を目指す「開化派」(独立党ともいう)とに別れていた。
加えて、宮中では政治の実権を巡って、高宗の実父である大院君らと、高宗の妃である閔妃らとが、激しく対立していた。
開国して5年目の1881年5月、朝鮮国王高宗の后閔妃の一族が実権を握っていた朝鮮政府は、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の筆頭となり日本と同じく近代的な軍隊を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から、軍事顧問(菊地節蔵陸軍歩兵中尉、堀本禮造陸軍工兵少尉及び美代清濯陸軍工兵少尉)を招きその指導の下に旧軍とは別に、新式の編成で新式の装備を有する「別技軍」を組織し、日本式の訓練を行ったり日本に留学させたりと、努力を続けていた。
開化派は軍の近代化を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も両班の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。
以下の説明は、『 新版韓国の歴史 - 国定韓国高等学校歴史教科書』(世界の教科書シリーズ 1)明石書店2000年による説明と合致したものである。
それに加え、当時朝鮮では財政難で軍隊への、当時は米で支払われていた給料(俸給米)の支給が13ヶ月も遅れていた。そして7月23日にやっと支払われた俸給米の中には、支給に当たった倉庫係が砂で水増しして、残りを着服しようとした為砂などが入っていた。これに激怒した守旧派の兵士達は倉庫係を暴行した後、倉庫に監禁した。いったんこの暴動は収まったが、その後、暴行の首魁が捕縛され処刑されることとなった。そのため、再度兵士らが暴動を起こした。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭である大院君の陰謀であった。
[編集] 兵士らの反乱
反乱を起こした兵士の不満矛先は別技軍を支援してきた日本人にも向けられ、貧民や浮浪者も加わった暴徒は堀本少尉や日本人公使館員、学生等無関係な人たちも殺害し、また王宮たる昌徳宮に難を逃れていた、閔妃の実の甥で別技軍教練所長だった閔泳翊に重傷を負わせ、開化派高官達も殺害した。
朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は朝鮮政府による公使館警備を要請したが、警備は十分ではないため暴徒の襲撃を受けた日本公使館は自ら応戦した。
当日は自衛でしのいだ公使館員一項は夜間に、花房義質公使以下28人は自ら公使館に火を放ったといわれ、漢城から仁川に至るまでの間に、たびたび暴徒の襲撃を受けて死傷者を出しながら難を逃れて、イギリスの測量船で長崎へ避難した。
事件とは全く無関係の一般の在留日本人にも死傷がでたとアジア資料センターの始末記には記載されている。
[編集] 清国側の対応
事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。事件を煽動した大院君側は、閔妃を捕り逃がしたものの、高宗から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。
しかし、逃げた閔妃は高宗に連絡を取り清に密使を送りそれを受け清は軍隊を派遣する。日本も事件処理のため軍隊を派遣した。ここで、日本と清どちらが反乱を鎮圧するかの争いになったが、朝鮮は清の冊封国だからという理由で、清朝軍はそのまま反乱を鎮圧し、大院君を軟禁し政権は閔妃の一族に戻る。一連の事件で日本の無力を目にした閔妃一族は開化政策から親清政策へ移転する。
大院君は清に連行され査問会にかけられ、天津に幽閉された。(高宗の解放嘆願書の効無く、大院君の幽閉は3年間続き、帰国は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共とだった。)
[編集] 日本側の対応
日本政府は、花房公使を全権委員として、高島鞆之助陸軍少将及び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦4隻、歩兵第11連隊の1個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣する。
日本側は当初、朝鮮政府による謝罪と遺族への扶助料、犯人の処罰、巨済島または鬱陵島の割譲を要求したが、清国軍とアメリカの軍艦派遣による牽制のため、領土の割譲は諦め[要出典][3]交渉を終え日本と朝鮮は済物浦条約を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。
このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が日清戦争へと結びつくことになる。
[編集] 殺害された日本人
数十名を越す死者を出し京城を撤収、仁川に逃れた。邦人犠牲者の中には清国兵によって犠牲となった婦女子もあった。殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者に準じて靖国神社[4]に合祀されている。
[編集] 靖国神社合祀分
- 堀本禮造
- 陸軍工兵少尉(戦死により陸軍工兵中尉に昇進される)。
- 水島義
- 日本公使館雇員
- 鈴木金太郎
- 31歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 飯塚玉吉
- 27歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 廣戸昌克
- 33歳。一等巡査 (事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 本田親友
- 22歳。三等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 宮 鋼太郎
- 18歳。外務省二等巡査(事由 弁理公使花房義質を護衛中 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 川上堅鞘
- 27歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 池田為義
- 28歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 遠矢庄八朗
- 外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 近藤道堅
- 22歳。私費語学生(事由 袈裟かけに2箇所重症を負い自刃す 戦死:明治15年11月1日靖国神社合祀
)
- 黒澤盛信
- 28歳。私費語学生(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀 :扶助料千五百圓を賜う)
- 池田平之進
- 21歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
- 岡内格
- 23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)
[編集] 追加合祀
- 藤代市十郎: 1等卒 (明治18年靖国神社合祀)
- 目黒多利吉: 1等卒 (明治18年靖国神社合祀)
- 飯島碩太郎: 歩兵曹長(明治18年靖国神社合祀)
[編集] 軍乱に対する処罰
大院君は清に連行され、李鴻章による査問会の後、天津に幽閉された(1882年8月)。
「大逆不道罪」で、官吏である鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉、儒学者の白楽寛、金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉は凌遅刑により処刑され、遺体は3日間曝された。なお、その家族一族郎党も斬首刑となった(1882年10月)。
[編集] 参考文献及び外部リンク
- 明治百年史叢書 第285巻、 日韓外交史料第2巻 壬午事変 (編集:市川正明)(原書房)
- 『近世朝鮮史』(著 林泰輔著) (早稲田大学出版部) 1900年
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- 保護期間満了につき国会図書館デジタルライブラリーで全文をみることができる。
詳細な1次資料はアジア歴史資料センターで見られたい。
[編集] 脚注
- ↑ 『近世朝鮮史』(著 林泰輔著)
- ↑ 中華民国の編纂した清王朝に関する正史『清史稿』では、朝鮮を属国伝に編入し日本は「邦交伝」に含まれている。つまり日本は中国の冊封から外れた周辺の独立国に分類しているが、これを金度亨延世大学校史学科教授をはじめ現代韓国歴史研究者、歴史家の多くはは認めていない。 さらに 日清修好条規第1条「大清国..両国属邦土..」という属邦という認識を持っている。
- ↑ 韓国のWEBには同様な記述があるが、外交資料には一切の記述はない。レフェリーのある学術研究誌または一次資料での出典を求む。
- ↑ 陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」
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